花いちもんめ:伊藤俊也

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伊藤俊也の1985年の映画「花いちもんめ」は、老人の認知症をテーマにした作品。この映画の中では、認知症は痴呆と呼ばれている。認知症という言葉には差別的な価値感覚はないと思うのだが、痴呆という言葉にはそういうトーンが明らかに認められる。じっさいこの映画の中の痴呆老人は、人間でなくなった動物のような存在として見られている。やはり時代の空気だろう。有吉佐和子が1972年に「恍惚の人」を発表したことで、認知症への社会の受け止め方には多少の変化はあったが、この映画が作られた頃には、まだまだ差別の対象であり、医療や介護をはじめ、社会全体で認知症患者やその家族を支えようとする雰囲気には程遠かった。そんななかで、認知症患者を抱えた家族の壮絶な毎日を、この映画は淡々と描きだしたわけで、そのことで多少は社会の認知症理解を広げたかもしれない。

映画は、千秋実演じる誇り高き老人が、認知症を患うようになり、しだいに壊れていく過程を描く。それを十朱幸代演じる嫁が必死になって支える。当時は認知症患者を受け入れてくれる老人病院は非常に少なく、たとえ入れたとしても、身体拘束をはじめ、非人間的な処遇を受けることが多かった。そんなひどい状態の中で、ひたすら一人で認知症になった舅の面倒を見続ける嫁の奮闘をこの映画は描くのだ。

この映画の最大の救いは、十朱幸代の演技だろう。十朱幸代という女性には、限りないやさしさを感じさせるところがあって、そのやさしさが人間に対するいくつしみの感情を呼び覚ます。彼女は、どんなひどい目にあっても、それに怒ったり、めげたりすることなく、まるでそれが自分に与えられた試練であるかのように、認知症になってなにもかもわからなくなった舅を支え続けるのである。

そんなわけで、この映画は、十朱幸代という女優の魅力から大部分が成り立っているといってよい。彼女演じる嫁は、夫とはかならずしもしっくりいっていないのだったが、舅という共通の課題を通じて、ふたたび絆をとりもどしていく。その象徴的な場面は、おそらく十年ぶりかそこらで久しぶりにセックスする気になることだ。夫婦は、セックスできるうちは、まだ壊れているとは言えない。どんなことがあっても、セックスが二人の絆を取り戻してくれる。そんなことを考えさせるシーンであった。もっともいざという時になって、突然間に割り込んできた舅によって邪魔されてしまうのだが。





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