四季・奈津子:東陽一

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東陽一の1980年の映画「四季・奈津子」は、前作「もう頬杖はつかない」に続き、若い女性のなんとなく流されながら生きていくさまを描く。青春映画といってよいが、底抜けの明るさはなく、かえって分別くささを感じさせる作品である。この映画で主人公役の奈津子を演じた烏丸節子は、その豊満な肉体が男たちの気持ちをそそった。決して美人ではないが、プリッとした尻の描く優美な線が独得のエロスを感じさせたものだ。
この奈津子は地方都市でありふれた退屈な日々を送ることに耐えられない。彼女の願いは、色々な経験をすることと、有名になることだ。恋人はいるが、それ一人では物足りない。ほかの男ともやってみたい。そんな願いに加え、有名になりたいという気持ちも働いて、あるカメラマンからのオファーに応える。そのカメラマンは、彼女の肉体の線に一目ぼれし、出会った瞬間にヌード写真を撮らないかと持ち掛けてきたのだ。

奈津子は東京へ赴いて、ヌード写真の撮影に臨む。場所はカメラマンの女友達の部屋だ。そこで二人そろって裸になり、ヌード写真を撮る。その女性とはその後も親しく付き合い、最後には一緒に映画のオーディションを受けに行き、見事合格するのだ。そんなわけで、スター誕生の一バージョンと言えなくもない。

その間にいろいろな逸話がある。なかでももっとも泣かせるのは、ロシアの詩人エセーニンにまつわるものだ。そのエセーニンを、心を病んでいる妹の冬子が大好きで、詩集を手に入れたいと思っているが、なかなか手に入らない。そのことを奈津子が、東京へ向かう新幹線の車中で知り合った詩人の男に話すと、男はそれを覚えてきて、冬子のもとに詩集を届けてやるのだ。この男が奈津子とかわす会話がこの映画のハイライトといってもよい。男は他人にはなかなか理解できそうもないことを滔々としゃべるし、奈津子のほうは、かならずしも頭が働くわけではないようなのだが、その話を熱心に聞く。人間関係の基本は、互いに話し合うことで理解しあうことだといわんばかりに。

しかしこういうまじめな部分は例外で、だいたいがセックスにまつわるシーンが続く。もっとも濡れ場はそんなにない。一度惚れてもいない男に抱かせるシーンが出てくるが、それには精神的な要素は全くなく、肉体特に下半身の要求に応えたというふうに伝わってくる。奈津子にとってセックスは、排泄と同じようなものなのだ。下半身の内部にたまった衝動を排泄するというわけである。

その奈津子を演じる烏丸節子がセックスの最中に立てるよがり声が男を悩殺したのだろう、この映画は非常に大きな反響を、特に若い男の間に巻き起こした。その連中は、こんな女となら無理をしてでもやってみたいと思ったに違いない。






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