小説伊勢物語業平:高樹のぶ子を読む

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高樹のぶ子といえば、エロチックな官能小説が得意で、女流ポルノ作家の大御所といったイメージが強かったものだが、老年に近づくにしたがって、淡泊な作風に変わっていった。おそらく、女性にとって宿命的な閉経という事態が、彼女の性的な情熱をさましたからだと思われる。女性の中には、鴎外の母親のように、灰になるまで男に抱かれたいと願う色好みもいるが、たいていの女性は性について淡泊になるものらしい。高樹はしかし、それでは女として生きてきた過去がいじめになると思ったのだろう、人生最後の日々を、再び性愛をもてあそぶことによって、光り輝くものにしたいと願ったように思える。「小説伊勢物語業平」は、そんな彼女の性的なエネルギーを傾倒した作品である。この小説を書いたとき、彼女はすでに古希を大きく超えていた。灰になってもおかしくない年齢で、肉を焼く火のかわりに魂を燃え上がらせる火の情熱をもって、この作品を完成したのであろう。

伊勢物語はいうまでもなく、日本最古の恋愛物語である。在原業平の女性遍歴を中心にして、男女の性愛を、歌のやりとりをつうじて描いている。そこには日本人の、性愛的な感性が、すでに完成されたかたちで示されているといってよい。われわれ現代人が伊勢物語について抱く親近感はそこに根ざしていると思われる。われわれは、この物語を読むことで、あたかも自分の分身が恋の情緒を味わっているように感じるものだ。それほど伊勢物語に描かれた男女の性愛の世界は、われわれにとって近いものがある。

その男女の性愛の世界を高樹が小説のなかで再び取り上げようと思ったのは、やはり自分自身へのいたわりの感情が働いているのだろう。なにしろ彼女は、女盛りの日々をもっぱら男女の性愛を描くことに費やしてきたのだ。性愛を情緒豊かに描き上げるというのが、高樹のそもそもの作家としての生き方だった。じっさい高樹は、男女の性愛を描くことに、恍惚に似た喜びを抱いたはずだ。その喜びは古希を過ぎた身では取り戻すべくもないが、その一端なりとも味わい尽くしてみたい。そういう願いに駆られてこの小説を執筆したのではないか。

伊勢物語には、一貫した筋だてはないに等しい。登場人物の相互関係も明示されておらず、表向きは無関係に見える小話が雑然と並べられているといった観を呈している。そのほとんどの小話がある人物の恋のやりとりをめぐるものだとの推測はつくが、それらを緊密に結びつけて、明確なストーリーに仕上げるという意図は感じられない。それぞれ独立した歌物語を雑然と並べたように見える。それを高樹は、業平を主人公にしたストーリーを組み立て、そのストーリーにそって個々の小話を再配列することで、全体として一つの物語に仕上げた。そのストーリーには、明白な裏付けはない。高樹の創造の産物としての性格が強い。そのことは、高樹自身認めていて、「最終的には私の業平像を創るために、蛮勇を振るうことになりました」と言っている。蛮勇とは、自分なりの勝手な解釈でもって、伊勢物語を作り直したということだろう。

そのストーリーは、大きく二つの要素から成り立っている。一つは業平の藤原高子との恋、もう一つは恬子内親王との恋である。そのほかゆきずりの恋を含めて様々な恋が描かれる。それらの恋が、業平の歌を手掛かりにしながらきめ細かく表現される。しかし、そのきめ細かさには、高樹の全盛期の性愛小説を彩っていた官能的なあやしさはほとんど感じられない。この小説のハイライトは、業平と高子との共寝であり、また業平と恬子内親王との共寝であるが、どちらもねっとりとした情感は感じられず、かなりあっさりとした表現になっている。たとえば、高子との共寝の場面は次のように表現されている。「この身体が、このお身体が、と幾重ものお着物の下へと手を伸ばしますと、さすがに身をくねらせました。そのとき、半ば脱がれた空蝉のような衣が、格子のすき間より漏れ入る明るみに色を表しました」

また、恬子内親王との共寝は次のように表現されている。「業平は恬子斎王の身体を、幾重もの衣から抜き取るようにし、自らの衣の中へと包みこみました。それはもう、白菊の茎を剥いたほどに、青白く匂い立っております」。どちらの場面描写にも、露骨に性的な印象はない。若いころの高樹なら、もっとストレートな表現で、性交の喜びを表現したに違いないのだ。

伊勢物語は、125段の歌物語からなっている。そこから高樹は75段を選択し、それらをストーリーに沿って並べ替えるという手法で物語展開する。冒頭の部分と末尾の部分だけは、原作と同じ位置にはめ込んでいる。冒頭の部分は、業平初冠の段で、「春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず」の歌を含む。また、末尾の部分は「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」という有名な歌で結んでいる。この二つの段の間に、さまざまな段を取捨選択して差し入れることで、全体として一つの連続したストーリーに仕立てているわけである。全体の節目となるのは高子をかどわかした「芥川」の一段で、これ以後業平東下りの諸段が続く。そして東から都へもどったあとは、伊勢にいる恬子内親王にアタックし、念願の共寝を達成したうえ、子供までさずけてやるのである。

選択からもれた段の中には、「さつき待つ花橘の香をかげばむかしの人の袖の香ぞする」といった捨てがたい歌もあるが、そうしたものを思い切って切り捨てることで、全体としての物語の体裁を整えている。そんなこともあってこの小説は、高樹の趣味に応じて伊勢物語を再構成したものだということができる。

ともあれ高樹は、この小説を執筆することで、女としての自分を堪能したのではないか。小説はあくまでも男である業平を中心にして展開するのだが、その業平の視線ではなく、業平に見つめられる女の気持ちに沿って語られる。高樹は自分をつねに業平によって見つめられている女として、この小説に感情移入していたのではないか。それは文体にも表れている。この小説の文体は、高樹自身、典雅な古語で書かれている原文の、歌を含めた雰囲気をそこなわないように、平安のみやびさを感じさせるような文体を目指したと言っているが、そのみやびさとは、男に愛される女の喜びを反映したものであり、その喜びを高樹自身も共にするとき、このような文体となってほとばしり出たと言えるのではないか。

なお、高樹は、小説の中に伊勢という名の女性を登場させて、その伊勢に業平が自分の生涯の歌を託したと言わせている。その伊勢が編集した物語であることから、伊勢物語と呼ばれるようになったと言いたいようであるが、これはあくまでも、高樹の創作であって、史実の裏付けがあるわけではない。






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