日本人のパンパン・コンプレックス(その八)

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敗戦は、日本人とくに男たちに測り知れないショックをもたらした。そのショックから自己を防衛するための心理的機制として生じたのパンパン・コンプレックスである。敗戦のショックをもたらした原因は外国による征服、及びそれに伴う女の喪失であったから、パンパン・コンプレックスはこれらの原因に対応する内容をもつこととなった。外国人による征服とそれに伴う被支配感情は、強烈な劣等感を日本人に受け付けたが、その劣等感は抑圧されねばならなかった。なぜなら人間は劣等感を抱えたまま生き続けることはむつかしいからだ。それで、外国であるアメリカに一方的に征服されたのではなく、自主的に従属したのだという擬制を作りあげた。戦後日本の対米従属は、基本的には被支配感情を抑圧し、それを合理化するためのシステムなのである。

女の喪失についての分析はあとで詳述するとして、ここでは対米従属について述べよう。戦後日本がアメリカに征服され、アメリカに都合がいいような政治・社会システムを押し付けられたのは致し方のない次第であった。日本は明治以降の対外戦争でそれまで負けたことがなく、敗戦が国をどのように変えるか明確なイメージをもつことができなかった。一般の日本人は、男はすべて殺され、女は強姦されるものと身構えていた。日本自身が、対外戦争の相手国にそのように振る舞っていたこともある。だが、アメリカ人は、日本の男たちを皆殺しにはしなかったし、女たちを強姦することもなかった。女たちは進んでアメリカ人に身をゆだねたので、その必要がなかったからだ。ともあれ、アメリカは、日本を自分に都合のいいように作り直した。日本はそれに進んで協力した。強制されて変わるより、納得ずくで変わるほうが、精神衛生にはよいからだ。

日本の対米従属は、新憲法と日米安保条約という形でシステム化された。新憲法は日本の政治システムを根底から変えた。まず、事実上死んだも同然の状態に置かれていた天皇がシンボルにまつりあげられ、政治的な影響力を決定的に奪われたかたちで復活した。それまでの天皇は、日本国家の主権者であり、内閣総理大臣の任命から対外戦争の決定まで、政治のあらゆる部面での決定権を握っていた。文字通りの主権者だったわけである。その主権者の地位に「国民」がつくこととなった。それまでの日本には、「臣民」はいても「国民」は存在しなかった。だからそれはアメリカが日本に与えたものなのである。その意味でアメリカは、日本の親、つまり父親ということができる。日本はアメリカの子供として生まれ変わったのである。新憲法はまた、生まれたばかりの国民にさまざまな権利を与えた。なかでも、男女同権は重要である。それによって、事実上男を尻目に自己を主張しつつあった女たちに法的な根拠が与えられた。女たちはいまや、男と同等の立場に立って、男のやることなすことを批判する権利を得たのである。これは男にとって都合の悪いことだったが、恐ろしい父親の決断とあれば、逆らうわけにはいかなかった。

日本人はこの新憲法を、アメリカによって押し付けられたものとしてではなく、自分たちが進んで採用したという擬制を作りあげた。どうせ受け入れねばならぬのだったら、いやいやながらではなく、納得づくで受け入れたということにしたほうが、精神衛生にはいいからである。中にはそれを押し付け憲法だと罵り、自主憲法制定を叫ぶ連中もいるが、それは少数派であって、大多数の国民は新憲法を進んで受け入れた。外国に与えられた憲法を錦の御旗のように大事にする国民は、戦後の日本人以外にはいないであろう。学者の中には、新憲法は敗戦による混乱の中で生じたある種の革命を通じて達成された、日本人自身の制作物だと強弁する学者もいるほどである。それは新憲法が、日本人にとって好ましい面も持っていたことを物語るのではないか。

日米安保条約は、占領の終結と独立国としての体裁を取り戻した講和条約と、抱き合わせで作られたものだ。日本が主権国家として自立することで、アメリカには占領の理由がなくなる。そのため、新しい条約を日本との間に結んで、占領を継続できるようにするというのが、この安保条約の露骨な意図だった。安全保障条約という名をつけられてはいるが、実際は占領継続条約なのである。1960年の改定により、アメリカに日本防衛義務が課されることになったために、双務的な性格を強めたが、アメリカが日本国内に軍事基地を設け、それを自由に使えるという、半植民地的な性格は基本的には変わっていない。しかもそうした対米従属体制をなかば無期限化したことで、日本の対米従属はより完全なものとなった。

以上は、対米従属の政治的な側面である。対米従属という点では、新憲法より日米安保のほうがインパクトが大きいといえる。新憲法は戦争の放棄を定めているので、日本は事実上アメリカの庇護のもとで生きるほか選択肢はなくなった。アメリカの武力にたよることによって、国家としての存続をはかる。そういうコンセンサスが次第に形成されていった。本来は日本の国土をアメリカの都合のいいように使うことを目的としていたものが、アメリカの日本防衛義務が明文化されてからは、アメリカへの日本の従属を深めるための方便として日米安保が語られるようになった。タカ派で知られる安倍晋三でさえ、自主防衛を云々する前に、アメリカの若者が日本を守ってくれているなどと、寝言めいたことを平然と言い放って恥じないほどなのである。

ともあれ、戦後の日本人は、敗戦の結果としての対米従属とそれに伴う被支配感情を合理化するために、さまざまな工夫をこらした。被支配感情に伴う劣等感は、放置しておくと精神的によくない。少なくとも抑圧されねばならない。そこで日米安保を中核とした対米従属体制は、強制されたものではなく、日本側が主体的に選んだものだとの擬制が作られた。それを合理化する名目として、共通の価値感とか、利害の共有とかいうことが言われる。共通とか共有といえば聞こえがいいが、実際には、日本がアメリカにほれ込んで、アメリカのいうことならなんでも聞きますということを、婉曲に言っているにすぎない。何故そんなにもほれ込んだのか。それは対米劣等感の現れなのである。劣等感のみじめさを無化するために、自分は進んでアメリカの支配を受け入れているのだということを、価値の共有という空文句で言い紛らしているわけである。

一方、日本がかつて侵略したアジア諸国との関係では、日本はあいかわらず妙な優越感を持ち続けた。それは、日本が自分自身の力で独立を回復したわけではなく、アメリカによって恩恵的に独立を与えられたことを反映している。日本は、それらアジア諸国との間で、実のある交渉をもつことなく、世界情勢の流れに乗じるような形で戦後処理を行った。それには、東アジアの複雑な国際情勢とか、欧米による植民地支配の影響とか、いろいろな要因が重なった。それらの要因は、日本にとって都合よく働いた。だから日本は、大した犠牲を払わずに、アジア諸国との和解を果たすことができた。その際に、過去の清算について徹底的な議論が国民の間に巻きおこらなかったために、アジア諸国に対する伝統的な蔑視的姿勢が改められることがなかった。そのことで日本はいまだに、アジア諸国から不審の目で見られている。

ともあれ、内政・外交を通じて、政治の部面での日本の対米従属の深化が、パンパン・コンプレックスのもたらした最重要の結果である。その具体的な現れは、新憲法と日米安保である。新憲法は日本をアメリカのコピーとして作り直し、日米安保は日本をアメリカの軍事的な僕として仕えさせたのである。





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