中論を読むその六:つくられたもの(有為)の考察

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中論第七章は、「つくられたもの(有為)の考察」と題して、「つくられたもの(有為)」と「つくられたものでないもの(無為)」についての考察である。ここで「もの」としてテーマになっているのは「生」である。その生が「つくられたもので」であるとは、なんらかのかたちで原因をもっているという意味である。原因のないものは生じないからである。それを「有為」という言葉であらわす。一方、「無為」は「有為」の反対であって、それは「つくられたものではない」。どういうことかというと、その存在に原因がないということである。原因がないとは、その存在がそれ自身の本性に基いてあるようなことをさす。具体的には、抽象的な概念のことである。抽象的な概念は、因果の連鎖から離れて、個々の概念がそれ自体で存在している。つまり抽象的な概念は自性をもつ。

要するにこの章は、具体的・個別的な存在としての生が、有為として因果の連鎖に繋がれているのに対して、抽象的・一般的な概念としての生は、因果の連鎖から離れた自性のものとして、無為であることを強調しているわけである。そのうえで、有為も無為も、どちらも成立しないという結論を導き出している。真実は、有為または無為という両極端のいづれかではなく、その中間に位置するというわけである。中観派の思想の核心的な部分が、ここでわかりやすく展開されているといってよい。

ところで、つくられたもの(有為)には、三つの相があると、この章の冒頭で言われている。つくられたものは、どのようなものでもかならず、生起(生)、存続(住)、消滅(滅)という三つの段階(相)をたどる。それに対して、無為のほうは、つくられたものではないから、そのような相とは無縁である。それはイデアのようなものとして、生成流転とは無縁である。要するに個別的な生としてのつくられたものは、生・住・滅というプロセスを繰り返すのに対して、抽象的な概念としての生は、不生不滅である。それは永遠にかわることはない。

この章でナーガールジュナは、まず有為が成立しないことを証明し、そのうえで無為も成立しないことを証明する。有為が成立しないことについての証明は、不去不来における議論をそのまま横引きしたものである。すなわち去ったものも、いまだ去らないものも、去りつつあるものも成立しないという論拠を適用して、「いま現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、未だ生じていないものも、決して生じない」と断言するのである。これはかなり強引な横引きであって、不去不来の理屈が成り立たねば成り立たない議論である。

同じような議論は、住と滅にも適用される。そのうえで、一切のものの生起も、一切のものの消滅も、一切のものの存続もありえないと結論付けられる。このように、「生と住と滅とが成立しないが故に有為は成立しない」のである。では何が成立しているというのか。それは「寂静」であるという。「縁によって起るものは、なにものもすべてやすらい(寂静)でいる。それ故に<現に生じつつあるもの>はやすらいでいる。<生>そのものもやすらいである」

ちょっと分かりにくい言い方であるが、要するに作られたもの(有為)は、それ自体では生起・存続・消滅することはなく、単に因果の流れに沿っているに過ぎない。成立しているといえるのは、因果の流れ全体であって、その中にある個別のものは、それ自体として成立しているわけではないということらしい。

以上を踏まえたうえで、「生と住と滅とが成立しないが故に有為は成立しない。また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか」と言われる。有為の不成立が無為の不成立の根拠となるためには、論理的に云って、無為が有為に含まれている関係でなければならないのであるが、ナーガールジュナのここでの議論は、そうした論理的な関係を一切無視しているように見える。

この章は次のような詩句で終わる。「あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく、あたかも蜃気楼のようなものであると、譬喩をもってそのように生起が説かれ、そのように住が説かれ、そのように消滅が説かれる」





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