世界の文学

「死せる魂」を構想するにあたってゴーゴリは、ロシアを地獄に見立てたほどだから、ロシアをこき下ろしているのは当然のことだ。ゴーゴリのロシア観は嘲笑的である。ロシア人というのはろくでもない人種で、そんな人種でできているロシアという国は、地獄よりひどいところだ、そんなゴーゴリの痛罵が伝わってくるのである。

ダンテの「神曲」にならって構想した「死せる魂」の第一部は、いわば「地獄編」に相当するものだ。ダンテの「地獄編」は、ヴィリギリウスに案内されながら地獄を遍歴するダンテを描いていた。ダンテの描くところの地獄は、キリスト教の地獄である。それに対してゴーゴリの描く地獄は、同時代のロシアである。ゴーゴリは彼の生きていた同時代のロシアを地獄に見たてたというわけだ。ダンテはヴィリギリウスに案内されて地獄を経めぐったのであったが、ゴーゴリの「地獄編」の主人公チチコフは、ほかならぬ語り手の作者に案内されながらロシアの町を経めぐるのである。

ゴーゴリは「死せる魂」を三部構成の長大な小説として構想していた。その構想は、第一部(現存する「死せる魂」)の最後の章で示されている。この章は、小説の主人公チチコフが従僕を率いて馬車を走らすところで終わっているのだが、かれらの旅の前には、さらに「膨大な二編」分の話が待っていると書いているのである。それがどんな内容になるのか、については語っていない。だがゴーゴリはこの三部作の小説全体を、ダンテの「神曲」にならって構想していたことがわかっている。ダンテの「神曲」は、第一部が「地獄編」、第二部が「煉獄編」、第三部が「天国編」という構成だが、それをモデルにしていたとすれば、「死せる魂」の第一部は「地獄編」に相当することになり、そのあとに「煉獄編」、「天国編」に相当するものが続くことになる。

ゴーゴリの短編小説「外套」を評して、ドストエフスキーが「われわれは皆ゴーゴリの『外套』から生まれたのだ!」といったことはよく知られている。ドストエフスキーがそういった理由は、ゴーゴリのこの小説が、かれを含めたロシアの作家たちの模範となったということだ。それほどこの小説は、ゴーゴリ以後のロシア文学に決定的な影響を与えたのである。

「検察官」はゴーゴリの代表的な戯曲であり、世界文学史の上で独特の存在感を誇る作品だ。この戯曲は発表早々すさまじい反響を呼び、そのためゴーゴリはロシアにいられなくなり、長きにわたる外国生活を余儀なくされたのであった。とはいえ、官憲による弾圧を嫌ったわけではない。この戯曲は、少数の友人の前で朗読されたあと、一般公開に先立ってニコライ皇帝の前で演じられた。するとニコライ皇帝は腹をかかえて笑ったというし、プーシキンも太鼓判を押してくれた。この戯曲が書かれるにあたっては、プーシキンも一役かったいたのであるが、その出来栄えはプーシキンの予想を超えるものであったのである。

ゴーゴリの短編小説「鼻」は、ある種の変身物語である。変身の話はヨーロッパではそれなりの伝統があるようで、それを踏まえたうえで、カフカも「変身」を書いた。カフカの小説の主人公は、人間がごきぶりに変身するのであるが、これはやはり、人間のナルシスが水仙に変身したというオヴィディウスの話にヒントを得たものであろう。ゴーゴリが「鼻」を書いたのはカフカより百年も前のことで、カフカのように強烈な不条理意識はないともいえるが、しかし鼻のない人間というのは、やはり不条理な事態といえなくもない。しかも、その失われた鼻がまるで自立した人間のようにふるまうのだ。だからこの小説を不条理文学の先駆けとして読むこともできるであろう。

ゴーゴリの中編小説「狂人日記」は、作品集「アラベスキ」に収載された。この作品集は1835年に、「ミルゴロド」と前後して刊行され、評論のほか中編小説数編を収めていた。それらのうち、「狂人日記」が書かれたのは1831年のことである。

ゴーゴリの中編小説「タラス・ブーリバ」は、「ディカーニカ夜話」に次いで出版した小説集「ミルゴロド」に収載されたもの。この小説集は四編の中編小説からなり、書名にあるとおり、いづれもミルゴロドを舞台にしている。ミルゴロドは、ディカーニカと同じくポルタヴァ県所在の町である。ウクライナ語(ロシア語のウクライナ方言)で、「平和の都市」を意味する。だが、この小説集の舞台となるのは、とても平和とは言えない。

「ディカーニカ近郷夜話」の続編は、四編の短編小説からなり、本編の翌年に出版された。中編といってよい比較的長い話二編と、短い話二編からなっている。本編の四編同様、基本的には悪魔を中心にした民話風の話である。三つ目の話「イワン・フョードロヴィチ・シポーニカとその叔母」には悪魔は出てこないが、主人公が見る幻影は悪魔の仕業といえなくもないので、それを含めてすべてが悪魔的なものをテーマにした民話の集まりということができる。それらの民話風の物語を通じてゴーゴリは、ロシア人、とくにウクライナに暮らす人々の宗教意識とか、民俗的な特徴を描き出しているのである。

「ディカーニカ近郷夜話」は、ゴーゴリの名を世間に知らしめた出世作である。八編の短編小説からなっている。ゴーゴリはそれらの小説類を1829年、つまり二十歳の時に書き始め、1831年に四編からなる前巻を、翌1832年に残りの四編からなる後巻を出版した。反響は好意的で、一躍人気作家になった。作家として早熟な点は、先輩のプーシキン同様である。ただプーシキンが詩人として出発したのに対して、ゴーゴリは詩を書かず、短編・中編の小説類を書き続けた。唯一の長編小説「死せる魂」は未完に終わっている。

レールモントフが叙事詩「悪魔」を完成させたのは、死の年である1841年のことであるが、書き始めたのは1829年であるから、十二年も費やしたことになる。かれは二十六歳で死んだので、生涯のほとんどをこの叙事詩のために費やしたといえる。かれの意識の中では、自身にとっての当面のマスターピースという位置づけだったのであろう。

レールモントフの叙事詩「ムツィリ」は1839年に書かれた。「現代の英雄」を執筆する以前のことであり、レールモントフにとっては最初の本格的文学作品である。プーシキンの死を悼んだ「詩人の死」以来、レールモントフの文学上の傾向は、同時代のロシアを強烈に批判しながら、そこに生きる若者の苦悩とか怒りをテーマにしたものだったが、この「ムツィリ」はそうした傾向を強く感じさせる作品だといえよう。

レールモントフは、プーシキンを深く敬愛していた。かれにとってプーシキンは、文学の手本であるとともに、生き方を導いてくれる人でもあった。デカブリストが弾圧されて、ロシア社会が閉塞的な状態に陥った時にも、プーシキンは未来への希望を捨てなかった。レールモントフにとっては、プーシキンはトータルな模範だったのである。

「現代の英雄」は、レールモントフ唯一の本格的小説である。かれがこの小説を出版したのは1840年2月、二十五歳のとき。翌1841年7月、決闘の結果満二十六歳で死んでいるから、これはかれにとって最初の本格的な小説であったばかりでなく、最後の小説でもあったわけだ。若いレールモントフは非常に軽はずみなところがあったようで、この小説が完成する直前にも決闘をしている。その際には肘にかすり傷をおったくらいですんだが、二度目の決闘のときには、受けた弾丸が致命傷になった。

プーシキンは非常に早熟で、少年時代から詩を書き始めた。現在残されている彼の詩のもっとも古いものは1814年、15歳の年のものである。かれは1836年の1月に決闘で死ぬのだが、その直前まで詩を作りつづけた。かれはいまや、ロシア最初の偉大な叙情詩人と呼ばれている。

「大尉の娘」は、プーシキンにとって最初で最後の本格的な小説である。この小説をプーシキンは37歳の年の秋に書き上げたのだったが、その三か月後に決闘を挑まれて殺されたのであった。決闘の原因は、プーシキンがある男の養父を侮辱したことだったが、その背後には、プーシキンの妻をめぐるその男との三角関係があったといわれる。プーシキンは、妻を寝取られまいとして、体をはって戦ったということだろう。

プーシキンの短編小説「スペードの女王」は、かれの散文作品の頂点といわれている。テーマは賭博である。それに老婦人の怨念がからめてある。この老婦人は、ドイツ人の工兵士官から、カルタに勝つ方法を教えるように強要され、恐怖のあまり死んでしまうのであるが、その恨みを死後幽霊となって巧妙な形で晴らす。だから、一種の怪談話といってよい。プーシキンには、「葬儀屋」とか「吹雪」といった、怪奇的な趣味を感じさせる傾向があるが、その怪奇趣味が、この小説では怪談話の形であらわれたわけである。

プーシキンの叙事詩「青銅の騎士」は、1824年にサンクト・ペテルブルグを襲った洪水をテーマにしている。その洪水が起きたのには理由がある。それはネヴァ川の湿地帯に無理やり都市を作り、自然の摂理を無視したために、自然から、ということは神の意志によって、しっぺがえしを受けたということである。プーシキンは、一方ではピョートル大帝による都市建設の偉業をたたえながら、自然の摂理を無視したその傲慢さを批判するのである。それゆえこの叙事詩は、ロシアの専制権力への厳しい批判という面をもっている。

プーシキンの小編「疫病時の酒宴」は、1830年に書かれた「ベールキン物語」とほぼ同時に書かれたものである。その年の9月、プーシキンはボルヂノ村で「エヴゲーニイ・オネーギン」の最終章と、「ベールキン物語」の一部を書き、村を離れようとしたところ、折からコレラが流行していたため、交通が遮断され村に閉じ込められてしまった。そこでかれは、「ベールキン物語」の続きを書くとともに、この「疫病時の酒宴」を書いたのだった。

プーシキンの短編小説集「ベールキン物語」は、正確には「故イヴァン・ペトローヴィチ・ベールキンの物語」といって、1830年の秋、ニジゴロド県ボルヂノ村の別荘で短期間で書き上げた。その時プーシキンはナターリア・ニコラーエヴナ・ゴンチャローヴァと婚約したばかりだった。だから精神的に充実していたはずだ。それまでプーシキンは主に詩を書いており、その延長で韻文の作品「エヴゲーニイ・オネーギン」を書いたりしていたのだったが、心機一転して散文の作品を手がけた。とりあえずは短編小説集という体裁をとったが、そこに収められた五つの短編小説は、ロシア文学最初の本格的なリアリズム小説であり、のちのロシア文学の、とくに小説の手本となったものである。

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