世界の文学

ボルヘスは、パスカルの球体についての「パンセ」の中の言葉に異常に拘っている。それは、「至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体」という言葉なのだが、たしかに無限の球体であるならば、どこにも周縁は見つからないだろうし、したがって中心も定まらず、いたるところにあるということになる。しかし、そんなものが意味を持つというのか。意味をもつとしたら、どんな意味だというのか。そうボルヘスは疑問を持って、パスカルのこの言葉に異常なこだわりをもつらしいのである。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、アルゼンチンに生きるユダヤ人だが、自分をアルゼンチン人とは意識しておらず、コスモポリタンなユダヤ人として意識しているようだ。アルゼンチンについては、軽蔑というよりも、無視する態度を徹底している。そんなものがこの地球に存在することさえ不可思議だといった露骨な嫌悪感がかれの文章からは伝わってくる。原住民たるインディオなどには、犬とかわらぬ存在意義しか感じていないようである。

アルゼンチンは、ラテンアメリカ諸国のなかでは、メキシコと並んで文学が盛んな国といわれる。その文学的な伝統は幻想文学と表現され、それをホルヘ・ルイス・ボルヘスが代表しているとされる。1944年に出版した「伝奇集」はかれの代表作である。これは短編小説を集めたものだが、かれは、文学者としては、短編小説の作者であって、長編小説は一つも書いていない。だからこれを読めば、ボルヘスの作風は一応納得できるといわれているのだが、小生が読んだ限り、これを「幻想文学」と定義するのは適当でないように思われる。

中南米諸国は、政情が不安定なこともあって、数多くの独裁者を生んだ。そういう国で文学活動を行うと、政治的な迫害を受けることが多く、またそれに反発して独裁者を批判する政治的なメッセージの強い作品群が生まれた。ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの「大統領閣下」は、ガルシア=マルケスの「族長の秋」と並んで、そうした専制政治批判の代表的なものである。

ラテンアメリカ文学は、魔術的リアリズムとか幻想文学といった呼ばれ方をされる。その呼ばれ方を通じてラテンアメリカ文学は、ある種の親類関係によって結ばれた強固な文学共同体のような観を呈している。その共同体を形成した始祖的人物というべきものが、M・A・アストゥリアスである。彼が1930年に発表した「グアテマラ伝説集」は、八篇の短文と一篇の脚本から構成されているのだが、いづれも魔術とか幻想を想起させる不思議な雰囲気の作品ばかりである。従来の文学の伝統から著しく逸脱していたので、面食らう読者が多かったのだが、20世紀最大の知性とされたポール・ヴァレリーが絶賛したこともあり、たちまち世界的な評判を呼んだ。後にアストゥリアスがノーベル文学賞を獲得するのは、この作品の成功に負うところが大きい。

「予告された殺人の記録」は、ガルシア=マルケスに特有のおとぎ話的な意外さはない。別の意味の意外さはある。それは事実そのものに潜む意外さだ。この小説のテーマは、妹が侮辱されたと信じ込んだ双子の兄弟が、妹を侮辱したと彼らが思いこんでいるある男に復讐することなのだが、その男が妹を侮辱したという明確な証拠がない。侮辱というのは、その男が妹の処女を奪ったということなのだが、かりにそれが事実だったとしても、なぜ処女を奪うことで殺されなければならないのか、その理由が薄弱なのだ。

ガルシア=マルケスの短編小説集「エレンディラ」は、「百年の孤独」と「族長たちの秋」の合間に書かれた。「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」以下七篇の短編小説からなっている。「無垢なエレンディラ」は比較的長く、中編小説といってもよいほどだが、その他はみな短い。どれもガルシア=マルケスらしい意外性に満ちた作品である。

ラテン・アメリカ文学には、独裁者小説というジャンルがあって、ガルシア=マルケスの「族長の秋」はその代表作のひとつだ。ラテン・アメリカは、安定した統一政権がなかなか生まれず、地方軍閥が交互に権力を握るといった事態が長い間続いた。そうした軍閥をカウディージョと呼ぶ。ラテン・アメリカ諸国の近代史はカウディージョの興亡の歴史である。

ラテン・アメリカ諸国の歴史は、数多くの独裁政権によって彩られている。もともとが、ヨーロッパからやってきた白人たちによって人為的に作られ、その白人たちの国家が全国民を統合するだけの力を持たなかったので、専制的な独裁政権ができるのは自然な流れだった。ひとくちに独裁政権といっても、色々なタイプがある。もっとも多いのは、軍事力を持った地方的な勢力が、互いに抗争を繰り返しながら政権交代するというものだろう。そういう軍閥のような勢力を、カウディージョという。ラテン・アメリカ文学には、こうしたカウディージョに焦点をあてて、ラテン・アメリカ的な独裁体制を強く批判した一連の作品群がある。ガルシア=マルケスの小説「族長の秋」もそうした作品の一つであり、アストゥリアスの「大統領閣下」と並んで、いわゆる独裁者文学の最高傑作とされている。

「大佐に手紙は来ない」は、ガルシア=マルケスの最初の本格的な小説である。そんなに長くはないので、長編小説とまではいえない。中編というべきだろう。だから、入り組んだ筋書きにはなっていない。筋らしいのものはほとんどないに等しい。コロンビアの港町で手紙が来るのをひたすら待ち続ける男の話である。男はもと軍人であって、大佐として活躍していたので、いまでも人々から大佐と呼ばれている。その大佐が待っている手紙とは、軍人恩給の決定通知書だ。貧乏なうえに息子を失ったばかりの大佐は、いまや七十五歳にもなって、妻と二人で貧乏生活を送っている。ただ一つの望みは、軍人恩給をもらって気楽に生きることだ。しかし、その軍人恩給の決定通知書がなかなか来ない。大佐には軍人恩給の受給資格があり、そのことは当局も認めているのだから、かならず決定通知書が来るはずだ。それを信じて大佐は、毎週金曜日に町にやって来る郵便物を確認するために、郵便物を運んでくる船が着岸する港まで出かけていくのだ。じっさい大佐は、この小説が続いているかぎり、その郵便物を待ち続けるのだが、それはついにやってこないのだ。「大佐に手紙は来ない」というタイトルは、そんな事情を手短に表現したものなのである。

「百年の孤独」は、ブエンディア家の七代にわたる記録という体裁をとっており、代々の男たちの生きざまが中心になるのだが、女たちも男たちに劣らぬ存在感を発揮している。彼女たちは、それぞれが個性的で、自分自身の信念にしたがって生きており、したがって自立した女たちであり、けっして男に従属してはいない。それどころか、自分の意志で男たちを動かす強さをもっている。そんな女たちに読者は、ラテン・アメリカの女の意地を見ることができるのではないか。

「百年の孤独」の後半部分は、ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリアノ・セグンドの双子の兄弟を中心に展開していく。ハイライトとなるのは、ホセ・アルカディオ・セグンドがバナナ会社の労働者のストを扇動し、そのストが官憲によって粉砕されるところを描いた部分である。バナナ会社はアメリカ資本であり、その苛酷な搾取に怒った労働者がストに訴えると、官憲が、アメリカ資本を守るために国民を虐殺するという構図は、19世紀におけるアメリカ資本のラテンアメリカ支配に共通したものである。その構図にガルシア=マルケスは怒りを覚え、ホセ・アルカディオ・セグンドを反アメリカ資本の闘いの英雄にしたのであろう。

「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリアノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものと見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない」。小説「百年の孤独」はこんな文章で始まる。アウレリアノ・ブエンディ大佐とは、ブエンディア家の初代でマコンドの創設者であるホセ・アルカディオの次男である。そのアウレリアノ大佐の闘いに明け暮れた人生が、小説前半の骨格をなしている。

「百年の孤独」は、ラテン・アメリカ文学を象徴するような作品である。この作品が発表された1967年以前から、アストゥリアスやボルヘスなどが、ラテンアメリカ文学の旗手として知られていたが、ラテン・アメリカ文学はまだまだマイナーでローカルな分野だと受け止められていた。ガルシア=マルケスのこの小説は、そんなラテン・アメリカ文学を20世紀の世界文学の中心に据えたのである。いってみれば、ラテンアメリカ文学の輝かしい確立宣言の役を担ったわけである。

ラテン・アメリカの歴史の案内書として、増田義郎の「 物語ラテン・アメリカの歴史」(中公新書)を繙いてみた。これからラテン・アメリカ文学を読むつもりなのだが、それにはラテン・アメリカの歴史についてある程度の知識が必要となるようなので、手っ取り早くその期待に応えてくれそうな本として、これを選んだだ次第だった。

寺尾隆吉「ラテンアメリカ文学入門」(中公新書)は、木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」と並んで、ラテンアメリカ文学への手ごろな入門書である。寺尾の本の五年後に出た。木村は膨大な数のラテンアメリカ文学作品を日本語に翻訳しているが、寺尾もまたかなりの規模の翻訳を行っている。そんなこともあって、両者とも、作品の詳細についてすみずみまで読み込みながら、かゆいところに手の届くような解説をする一方、ラテンアメリカ文学の特徴を俯瞰するような視点も見せてくれる。

木村榮一はラテンアメリカ文学の翻訳者で、数多くの作品を日本に紹介してきた。ラテンアメリカ文学が世界中に本格的に知られるようになるのは、20世紀半ば以降のことで、とくに1967年に出版されたガルシア・マルケスの「百年の孤独」が大きな役割を果たしたようだ。その後、文学の巨匠というべき作家たちが次々と登場し、ラテンアメリカ文学は20世紀後半以降の世界文学を牽引するものとなった。そんなラテンアメリカ文学を木村は勢力的に日本に紹介してきたわけだ。

新潮文庫版の邦訳「ロリータ」には、大江健三郎によるあとがきが付されている。あとがきから読み始めることを日頃の習性にしている小生は、この場合にも大江のこのあとがきから読んだ次第だったが、大江がなぜ、「ロリータ」のためにあとがきを書く気になったか、それはこのあとがきを読んだだけでは明らかにならなかった。たまたま自分の生まれた年がロリータのそれと一致していたとか(両者とも1935年)、小説の導入部分でアナベル・リーへの言及があるが、アナベル・リーこそは自分の青春のあこがれだったとかいったことが書いてあるだけだ。ただ、自分は、ロマンチックな小説を生涯書いたことがないが、「ロリータ」はもっともすぐれたロマンチック小説として、うらやむべきものと思っている、というようなことを書いているので、大江は「ロリータ」をロマンチックな小説として捉えているようである。

フランス文学といえば、強烈な個人主義と男女の性愛が最大の特徴だ。セリーヌの小説「夜の果ての旅」も、その伝統に忠実である。この小説は、強烈な個人主義者フェルディナン・バルダミュの女性遍歴の物語と言ってよい。

大江健三郎には、自分の小説の中でさまざまな文学作品を取りあげ、それへの注釈の形で自分の思想を吟味するという癖があった。「さようなら、私の本よ!」という小説では、セリーヌの「夜の果ての旅」を取りあげている。だが、詳しい注釈をしているわけではない。詳しい注釈はT・S・エリオットの詩に対して施され、「夜の果てへの旅」については、「おかしな二人組」の先例として紹介している程度だ。「おかしな二人組」というのは、大江が自身の晩年の三部作に冠した通称で、大江自身の分身と、それの更に分身と思われる人物との、おかしな二人組の繰り広げる物語を語ったものだった。その大江にとって、セリーヌの「夜の果ての旅」に出て来るバルダミュとロバンソンは、おかしな二人組の先駆者として映ったようなのだ。大江はその小説の中で、おかしな二人組が協力し合って、「ロバンソン小説」なるものを創作しようとするところを描いている。

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