ドストエフスキーは、反ユダヤ主義がよく批判の対象となる。熱心な批判者には当のユダヤ人が多い。ドストエフスキーのような、影響力の大きな文学者が反ユダヤ主義をまき散らしているのを、ユダヤ人としては放置しておけないと思うからであろう。そういう批判者は、ドストエフスキーの人間性そのものに攻撃を加え、世界の文学史から排除することを目指す。だが、そんなことでへこたれるようなドストエフスキーではない。
世界の文学
小説「カラマーゾフの兄弟」のクライマックスは、ドミートリーの父親殺しの嫌疑をめぐる刑事裁判である。それに先立ち、司法当局者たちによる予備的な尋問が行われていた。ドミートリーがグルーシャとともにどんちゃん騒ぎをやっているところに、かれらは顔をあらわし、尋問を始めたのである。じつにみごとなタイミングであったが、それにはわけがある。たまたま警察署長ミハイル・マカーロヴィチの家に、判事のニコライと検事のイポリート、司法医のヴィルヴィンスキーが集まっていたところ、ヴェルホーヴェンという小役人が、フョードル殺害の一報をもたらした。かれらはさっそく現場に飛び。フヨードルが血だらけで死んでおり、札束を抜き取られた封筒が床の上に落ちているのを見る。かれらは、犯人は長男のドミートリーにちがいないと推測する。ドミートリーは日頃から父親殺しを示唆するような発言をし、また、父親との間で金のトラブルを抱えていたからである。
宗教的奇人と訳されるユロージヴィは、ロシア特有の現象らしい。裸あるいは異様な身なりで放浪し、キリスト教の教えを独特な解釈で説教して歩く。そうした行いが貧しい民衆の支持を集め、熱狂的な宗教集団を形成するに至る場合もある。16世紀ころからぼちぼち現れ、19世紀にはロシア全土でかなりの規模で社会に浸透したらしい。そのユロージヴィにドストエフスキーは大きな関心を寄せ、小説の中でたびたび言及している。初期の作品「死の家の記録」では、ユロージヴィを分離派と結びつけている。分離派は、ロシア正教会から分離した宗教集団のことをさすが、その教義には、独特のものがあり、奇行を多く含んでいるという。
ドストエフスキーの小説世界には、強烈なキャラクターの女性が必ず出てくる。彼女らは、男の主人公以上に強い存在感を発揮している場合が多い。「白痴」では、ナスターシャとアグラーヤがムイシュキン公爵を手玉にとるし、「悪霊」では、ワルワーラ夫人が物語全体の中心にいる。「罪と罰」のソーニャやそのタイプの女性たちも、一見ひ弱そうに感じさせるが、芯の強さを持っている。ドストエフスキーがこうした女性たちにこだわったのは、かれなりのロシア人観に根差しているのだと思う。ロシア人というのは、男がだらしないだけに、そのだらしない部分を女が補っている。女が毅然としていなければ、ロシア社会はまともには機能しない。そういう考えが働いて、女性に大きな比重を持たせているのが、ドストエフスキーの小説の特徴だと思う。
スメルジャコフは、この小説のメーンテーマであるフョードル・カラマーゾフ殺しの下手人であり、そういう点では非常に重要な役回りを負わされているのだが、その割には人物像が明確ではない。だいいち、かれがフョードルを殺す場面は直接的には描写されていないし、また、かれがなぜフョードル殺しを決意したのか、その動機もあやふやである。金目的というふうにほのめかされてはいるが、いま一つ説得力がない。金目当てなら、その金を有効に使おうとするはずだが、かれはそれをイヴァンに与えてしまうのだし、事件後まもなくして自殺してしまうのだ。かれがかぜ自殺を選んだのか、それについても謎のままである。というわけで、この小説の中のスメルジャコフは、重要な役回りの割に、存在感が大きいとはいえない。
カラマーゾフ三兄弟のなかでイヴァンは、性格がいま一つはっきりしないという印象を与える。長男のドミートリーにも性格の破綻を感じさせるところはあるが、それなりに自分の目的にしたがって行動している。かれの目的は快楽を追求することであり、その快楽を与えてくれるものが一人の女(ドルーシェンカ)であるかぎり、ただひたすらその女の愛を求める。かれの行動は非常に常軌を逸しているが、それも女の愛を得るための行動と見れば不自然さはない。また、アリョーシャのほうは、宗教的な奇人(ユーロジヴィ)として人物設定されていることもあり、その行動は宗教上の理由に根拠づけられている。ところが、イヴァンには明確な性格設定がなされているとはいいがたい。かれは、一応高等教育を受けており、インテリゲンツィアということになっている。ドストエフスキーは、インテリには自由思想を抱かせるのが好きであるから、イヴァンにもそうした自由思想を抱かせている。しかし、イヴァンの行動を追っていくと、とてもインテリとしての合理的な行動をしているとは思えない。かれには一種独特の性格の弱さがあって、そのために一人前の男としては物足りなさを感じさせる。実際、ドミートリーの裁判をめぐって彼が示す反応は、じつに幼稚なところを感じさせるのである。
カラマーゾフ三兄弟のなかでもっとも複雑な性格の人物は長男のドミートリーだ。見かけ上は次男のイヴァンのほうが複雑に見えるが、しかしイヴァンは基本的には冷徹なリアリストであり、その行動原理はそれなりに一貫している。それに対してドミートリーには、そうした一貫性がない。その場の雰囲気にのまれて、やぶれかぶれに行動する傾向が強い。そういう傾向はあるいは単純な性格に帰せられるのかもしれないが、ドミートリーの場合には、そんなに単純な話ではないのである。かれは、父親殺しの嫌疑をかけられて裁判されるのであるが、自分は裁かれる資格が十分あると思っている。だが、父親殺しでは無罪を主張する。一方で自分は有罪だといいながら、他方では無罪だといいはる。そんな彼の言い分を裁判官たちが聞き入れるわけはない。かれは、裁判にまともに立ち向かうには、性格が複雑すぎるのだ。
カラマーゾフの兄弟は三人からなる。長男のドミートリー(ミーチャ)、次男のイヴァン、三男のアレクセイ(アリョーシャ)である。この三人のうち、小説全体の主人公は長男のドミートリーだ。なにしろこの小説は、父親殺しをモチーフにしており、その下手人として裁かれるのがドミートリーだからである。だが語り手は、アリョーシャを真の主人公のように位置付けている。というのも、今日「カラマーゾフの兄弟」として知られている小説は、もっと壮大な小説の前半部として書かれたからで、後半部では、もっぱらアリューシャにまつわることが書かれることになっていた。それはドストエフスキーの早すぎる死によって書かれることはなかったが、もし書かれていれば、前後合わせた壮大な小説の主人公をアレクセイが務めることになるのは、疑い得ないことだろうからである。そんなわけで、前半たる「カラマーゾフの兄弟」においても、アリョーシャが実質的に主役に等しい役割を与えられているのである。
「カラマーゾフの兄弟」は、ドストエフスキー最後の小説である。これを雑誌「ロシア報知」に連載しはじめたのは1879年の時であり、その翌年に単行本として出版した。その時ドストエフスキーはまだ58歳だった。かれは1881年に59歳で死ぬのであるが、作家としては早すぎる死といってよい。かれはこの小説の続編を構想していたので、もうすこし長く生きていたら、その続編と相まって、世界文学史上もっとも雄大な小説となったかもしれない。
ドストエフスキーには賭博癖があった。「罪と罰」と並行して書いた「賭博者」という小説は、自身の賭博経験を生かしているといわれる。その小説の中の主人公アレクセイには、ドストエフスキーの面影を指摘できる。「未成年」にも、賭博のシーンが出てくる。アルカージーの道楽としてである。その道楽をアルカージーはセリョージャ公爵に仕込まれたのであるが、いったんそれを始めると、その魅力にのめりこんでしまう。アルカージーにとって賭博は、遊びであると同時に手っ取り早く金を得る手段でもある。賭博を金を得る手段と考えるようになっては、なかなかやめられないであろう。
小説「未成年」には、ドストエフスキーのロシア主義的心情と外国人への嫌悪感が盛り込まれている。外国人のうちでもユダヤ人は特に醜悪な描かれ方をしている。そこでこの小説は、ドストエフスキーの反ユダヤ主義がもっとも露骨に表れているものとして受け止められてきた。また、ロシア主義については、単にロシア人の民族的特殊性を誇大に言い募るというよりは、ロシア人のコスモポリタン的な面を強調し、それをもとにロシア人の国際的な優秀性を誇示するというやり方をしている。ロシア人ほどコスモポリタンな民族はいない。そのロシア人こそが世界の手本となる資格があるというわけである。
ドストエフスキーは、小説の中で不幸な女を描くのが好きであった。「虐げられた人々」の中のネリーとか、「地下生活者の手記」の中のリーザは、かれがもっとも力を込めて描いた不幸な女である。「罪と罰」の中のソーニャもそうした女の一人である。「未成年」にも不幸な女が出てくる。オーリャである。彼女は不幸であるとともに気位の高い女であって、その気位の高さが彼女を死に駆り立てる。彼女は、世間からさんざん愚弄されたことで、生きることに絶望し自ら首を吊って死ぬのであるが、それはぎりぎりの自尊心のためだったのである。
小説「未成年」の出だし近いところで、アルカージーはクラフトと会う目的でデルガチョフの家に出かけていく。クラフトが彼のためにあずかっている書類を受け取るためである。そこには、何人かの青年たちが集まっていて、何やら議論していた。その議論にアルカージーも加わることになる。青年のなかにはクラフトのほかワーシンとか教師と綽名された者などがいて、それぞれ勝手なことを言っていた。その議論が、当時のロシアの青年世代をとらえていた自由思想を踏まえたものなのだ。自由思想を抱いた青年たちは、「悪霊」にも登場するが、この小説の中の青年たちは、「悪霊」の青年たちに比べ、いまひとつ迫力を感じさせない。アルカージーなどは、思想らしいものを持っていないのだが、そのアルカージーと比べてもたいした違いはないのである。
マカール・イヴァーノヴィチ・ゴルゴルーキーは、ロシア人の信仰のあり方の一つの典型を示している。ドストエフスキーはこの小説の中で、マカール・イヴァーノヴィチにたいして大きな役割は果たさせていないが、しかし彼のちょっとした言葉の端々から、ロシアの民衆の信仰心が伝わってくるように書いている。マカールは、農奴の出身であり、したがってロシアの最下層の民衆を代表する人間である。その最下層のロシア人にとってキリスト教信仰とはどんな意味を持つのか。そのことを考えさせるようにドストエフスキーは書いているのである。
セリョージャ公爵はヴェルシーロフ親子と深い因縁がある。ヴェルシーロフとは第三者の遺産相続権をめぐって争ったほか、個人的な怨恨もある。アルカージーとはともに放蕩の限りをつくした。またリーザとは肉体関係を持ち、妊娠させてもいる。ヴェルシーロフ親子はこの小説のカギとなる人物像なので、そのいずれとも深い因縁があるセリョージャ公爵は、奥行きのある複雑な人物像であってもよいのだが、どうも薄っぺらな印象をぬぐえない。それは、一人称で個人的な体験を語るというこの小説の構成上の制約かもしれないが、それにしても中途半端な人物だという印象がぬぐえないのである。
小説「未成年」のメーン・プロットは、カテリーナ・ニコラーエヴナとアンナ・アンドレーエヴナという二人の女性の確執である。カテリーナ・ニコラーエヴナはソコーリスキー老侯爵の娘であり、アンナ・アンドレーエヴナはヴェルシーロフの娘であり、かつ老侯爵との結婚を願っている。それだけのことなら大した問題にはならないはずだが、そこに複雑な事情がからむ。カテリーナは、父の老侯爵がアンナと結婚することによって、遺産の大部分をアンナに相続させるのではないかと恐れる。実はそれ以前から、父親を信用せずに、財産の管理を自分がやるつもりでいた。そのために父親を禁治産者にするための相談をある人物としていたほどである。それにかかわる文書が、どういうわけかアルカージーの手に入る。その文書をめぐって小説は展開するのだ。
アンドレイ・ペトローヴィチ・ヴェルシーロフは非常に謎の多い人物である。そのためか、この小説では語り手のアルカージーについで強い存在感を感じさせるのであるが、その割りに決定的な意義をもつような行動はしていない。それはおそらく、この小説がアルカージーの回想という形をとっており、したがってアルカージーの意識を通過したことがらしか書かれていないという事情と関連するのであろう。かれはアルカージーの実の父親であり、アルカージーともっとも密接な関係にあるので、当然もっとも多く言及される。そのアルカージーにはヴェルシーロフは謎の多い人物に見えている。そこで当然のこととして、アルカージーは読者にとっても謎の多い人物というふうに映るわけである。
小説「未成年」は、アルカージー・マカーロヴィチ・ドルゴルーキーという人物の回想録という形をとっている。その回想の中で、一年ほどの間に起きたことがらが再現されるのだが、その中では、アルカージーの目に映ったさまざまな事態の記述と並んで、アルカージーの自分自身についての反省のようなものも語られる。アルカージー・マカーロヴィッチは単なる語り手ではなく、彼自身の自己意識をもったプレーヤーなのだ。そこでここでは、そのアルカージーの素顔とでもいうべきものを取り上げてみたい。かれの素顔を知ることは、小説の読解を深めるには欠かせないと思われるからだ。
ドストエフスキーの小説「未成年」は、いわゆる五代長編小説のうち四番目の作品である。「悪霊」と「カラマーゾフの兄弟」の間に位置する。ドストエフスキー研究で知られる寺田透はこの小説を、ドストエフスキーの第二の処女作と言っている。どういうつもりでそう言ったのか。処女作というと、その後の作品世界にとっての手がかりを示したものということになる。もしこの小説を処女作と言うならば、それを手掛かりとした作品は、「作家の日記」を別におけば、「カラマーゾフの兄弟」ということになる。だが、「カラマーゾフの兄弟」が「未成年」から生まれたとはなかなか考えがたいのではないか。
「未成年」はむしろ「悪霊」との関連において論じるのが理にかなっているのではないか。その関連において重視すべきは二つある。一つは語り口であり、もう一つは人物像である。語り口については、「悪霊」では基本的には小説の一登場人物の語りという体裁をとりながら、それがいつの間にか第三者の語りと混交するというような不思議なスタイルをとっていた。小説の構成にある程度の客観性を持たせようとする配慮がそうさせたのだと思う。それは読み手にとって、筋の進行がわかりやすくなるという効果をもたらした反面、なにか作り物めいたしらじらしさを感じさせないでもなかった。そのしらじらしさについて反省したのか、ドストエフスキーはこの「未成年」では、完全な一人称のスタイルに徹している。そのことで、小説の構成は厳密でかつシンプルなものになった。だがそのかわりに、客観的な描写を犠牲にせねばならなかった。この小説は完全な一人称で進行するので、語り手の意識に現れたもの以外は語られないのである。しかもその語り手は、未成年であって、したがって人間として未熟である。その未熟な人間の意識にのぼったことだけが語られるので、語り方は稚拙にもなり、また感情的になったり、誤解も多かったりする。そういう語り方は、語り手の個人的な心理的事実を語るには適しているが、複雑な事態を描写するには適していない。それをあえてドストエフスキーが行ったのはどういう理由からか、ということが問題となる。
人物像については、「悪霊」に登場するのは、ロシアに現れつつあった新しい世代の若者たちが中心である。かれらは、ナロードニキであったり、無政府主義者であったり、社会主義者であったりする。そんな若者たちにドストエフスキー自身は批判的である。それゆえ、語り手を通じてそういう思想を批判させたり、また、ロシア主義を主張させたりする。そんなわけで「悪霊」という小説は、きわめて政治的なメッセージを含んでいる。それに対して、「未成年」に出て来る人物像は、基本的には利己的な人間ばかりで、政治的な野心はほとんど感じさせない。ワーシャという人物や、かれの関係する若者たちが登場し、政治的な議論をする場面もあるが、かれらのそうした行いはあくまでも刺身のツマのような扱いであり、小説の前景になることは一度もない。その点は、「悪霊」と「未成年」とは、まったく違う世界を描いているといってよい。「悪霊」は、新しい世代のロシアの若者たちの政治的な行動をテーマとし、「未成年」のほうは、利己的な人間たちが繰り広げる世間話のようなものがテーマになっている。
世間話といったが、この小説にはたいした筋書きはないのである。一応クライマックスはあり、それに向かって様々な事態が展開していくという体裁にはなっているが、そのクライマックスというのが、基本的には金をめぐるごたごたなのである。この小説は、ソコーリスキー老侯爵の遺産をめぐる争いが基本的なテーマなのだ。それに主人公の父親ヴェルシーロフの狂気だとか、カテリーナ・ニコラーエヴナとアンナ・アンドレーエヴナの確執とかがからんでくるが、それらはサブプロットいってよく、メーンプロットは遺産つまり金をめぐるごたごたなのである。ドストエフスキーの小説としては、めずらしく世俗的な内容である。
この小説の語り手は、アルカージー・マカーロヴィッチという未成年者で、かれが一年余りの間に体験した出来事を回想するという体裁をとっている。小説はそのアルカージーの回想録(本人は記録とか手記と呼んでいる)なのである。その回想録を語り手は一年前の九月十九日を起点にして書いたと言っているが、その九月十九日というのは、クラフトという若者から書類を受け取った日で、その書類というのが、老侯爵の遺産にまつわることが書かれていることからも、この小説が遺産相続争いをテーマにしたものだということができるのである。
遺産相続は、昔のロシア人にとっては深刻な問題で、したがって大きな関心の的ではありえたかもしれぬが、偉大な小説のテーマとしてはいかにもこまごましい印象を与える。そこで、ヴェルシーロフの狂気だとか、彼とカテリーナ・ニコラーエヴナとの不思議な愛憎関係とか、語り手のアルカージーとヴェルシーロフやそのほかの家族との関係とか、老侯爵をとりまく人間模様とか、幼馴染でならずもののランベルトとか、ワーシンを中心とした新しい青年たちとか、ドストエフスキーが大好きな不幸な女とかを登場させて、小説の展開に色を添えてはいる。だが、それらはあくまでサブプロット扱いであり、メーンプロットは老侯爵をめぐる遺産争奪の争いなのである。
第一、語り手のアルカージー自身が、遺産相続の行方を左右する重要な文書に始終こだわっているのである。この小説はそのアルカージーの意識のなかにあらわれたものだけを記録するという体裁をとっているので、そのアルカージーが遺産相続の行方に関心を集中しているかぎり、そのことが小説のメーンテーマであり続けるわけだ。
そんなわけで、この小説は、アルカージー・マカーロヴィッチの意識の範囲を展開の場としている。かれの意識にうつった世界を、多少の解釈を交えながら記録するという体裁をとっている。その結果、描写は極めて主観的にならざるをえないし、解釈の中には誤解も含まれているようなので、どれが事実でどれが誤解なのか、客観的に判断するすべがない。事実の判断基準がないのであるから、読者は語り手の言っていることを、眉につばしながら受け取らねばなるまい。「悪霊」の場合には、事実を自然に見せるための工夫として、ときたま第三者的な描写が行われ、それが事実の展開に自然なイメージを付与するのであるが、「未成年」には、そうした工夫は一切なく、あくまでもアルカージーの体験したことを聞かされる。それゆえ、語りの内容にはかなりな混乱も生じる。その混乱をドストエフスキーは楽しんでいるフシがある。
「スタヴローギンの告白」は、そもそも「悪霊」のために書かれたものである。ドストエフスキーはこの文章を、第二部第八章に続くものとして書いたのだったが、色々な事情があって、本文から排除してしまった。出版社の意向に左右されたというのが有力な説である。この文章には、スタヴローギンがいたいけな少女を性的に虐待し、その結果自殺に追いやる場面が出てくる。それは、スタヴローギンの異常な人格を浮かび上がらせるための工夫だったと思われるが、あまりにも陰惨な内容だったため、出版社が拒絶反応を示した。ドストエフスキーはそれに逆らえず、この文章を排除することに同意したということらしい。
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