このうち、④の身が痩せる思いがする、というのが原義であるとするのが通説だ。つまり、身が痩せるの古語「痩す」が、形容詞「痩さし」になったというわけだ。
このように動詞から形容詞が作られるのは、日本語の大きな特徴の一つだと、言語学者の阪倉篤義氏はいう。一例として「やさし」と同じような形容詞を取り上げてみよう。
・いさむーいさまし ・いとふーいとはし ・いそぐーいそがし
・いたむーいたまし ・うたがふーうたがはし ・うらやむーうらやまし
・くるふーくるはし ・つつむーつつまし ・ねがふーねがはし
・なやむーなやまし ・このむーこのまし ・たのむーたのもし
・なげくーなげかし ・ほこるーほこらし ・よろこぶーよろこばし
これらはいずれも、動詞が「しく活用」の形容詞に転化したもので、厭うとか、羨むとか、好むといった、情意活動を意味するものが多い。
これに対して、作用とか状態を表す動詞から「く活用」の形容詞が作られる場合がある。
・あく(明)ーあかし(明) ・くる(暮)―くらし(暗)
・ある(荒)―あらし(荒) ・せむ(迫)―せまし(狭)
・たく(長)―たかし(高) ・ふく(更)―ふかし(深)
「やさし」のもとになった動詞「痩す」は、情意活動を意味するものではなく、身体の状態を表している言葉だ。それ故上記の2系列の形容詞のうち、「く活用」のものと共通するはずなのだが、それがなぜか「しく活用」の形容詞になった。
このことから、「やさし」は本来情意活動とは異なった意味合いを持っていたはずのものが、情意活動を表すようになったのではないか、と考えられる。
「身が痩せる」こと自体は身体の状態を表しているのに過ぎないのに、「やさしい」という言葉には、人間の情意活動を表すような意味が多数付着している。
これは、「しく活用」の仲間に入ることで、ほかの「しく活用」の形容詞との連想がはたらくようになって、本来の意味に情意活動を表す他の意味がつけくわわっていったのではないか、そう思われるのである。
情意表現としての「やさし」はまず「身が痩せる思いがするほど恥ずかしい」という具合に「はずかしさ」を表したのが始まりだったろうと思われる。
「はずかしさ」は「つつましさ」につながる。そこで上の⑤の用法が生まれた。つつましさはまた、他人への思いやりを連想させる。そこから②の用法が生まれた。他人への思いやりは、控えめさを連想させる。そこから③の用法が生まれた。控えめなことは上品な態度を連想させる。そこから①の用法が生まれた。また他人への思いやりは、自分を殺して周りの空気を尊重する態度を連想させ、そこからおのづと⑥の用法が生まれたのではないか、このように推測されるのである。
「やさし」「はずかし」「つつまし」といった精神的なあり方は、平安時代の貴族社会では大いに評価されたと阪倉氏はいう。当時の理想的な女性像は、容姿的には小柄でほっそりと痩せていることが条件で、振る舞い上は、ひっそりとして押し付けがましいところのないことが条件であった。「やさし」以下の言葉はだから、当時の人々の美意識を表した言葉でもあったわけである。
現代語では、「やさしい」という言葉で「容易」であることを意味することがあるが、これは同音異議である。「容易」の「やさしい」はもともとは「いふはやすし=易し」などといっていたのが、「いふはやさし」となり、それが今日の「言うはやさしい」になったと考えられる。
もっとも阪倉氏は、「やさし」と言う言葉の中に、もともと「易し」の意味が含まれていた可能性もあるとしている。「やさし」の中に含まれる無抵抗の素直さが、他人によって付け込まれ、容易に騙されやすい、あるいは主体性を失って無闇に同調する、そうしたマイナスの意味合いを帯びることもあったのであり、それが「容易」の意味の「やさし」になったのではないかと考えるわけである。
関連サイト:日本語と日本文化
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