山折氏は、天武天皇の葬儀には妻である持統天皇の意思が色濃く反映しているとする安井氏の考え方を紹介しながら、天武天皇の葬祭儀礼の大きな特徴として二つ挙げている。
ひとつは、天武の崩御からその遺体が大内稜に葬られるまでの期間が、2年2か月という長期間にわたっていることである。これは他の天皇の殯期間が、日本書紀によれば平均6か月であることと比較すれば、桁違いな長さである。安井氏はその理由として、皇太子がまだ皇位を継ぐに十分な年齢に達していなかったこと、また大津皇子による謀反が発生していたことなどをあげているが、それにしても異常な長さだといわねばならない。
もうひとつは、この葬儀の中に仏教的な儀式が積極的かつ大規模に取り入れられたことである。これ以前に、天皇の葬礼に仏教的な儀式がとりいれられた例はないと氏は言う。仏教の興隆を図ったあの推古天皇の葬礼でさえ、仏教的な儀式が行われたという確証はない。
天武天皇の葬儀における殯の儀式と仏教的な儀式とがどのように組み合わされて行われたか、山折氏は安井氏の研究をもとに、再現している。その代表的な出来事を選んでここに再掲すると、以下のようである。
・朱鳥元、9月9日 天武天皇崩御
・同9月11日 南庭に殯宮を立てる
・同9月24日 南庭に殯する
・同27、28日 僧尼が哭す
・持統元、正月1日 皇太子が公卿百寮人を率いて殯宮に哭す
・持統元10月22日 大内稜を築く
・持統2、11月4日 皇太子が公卿百寮人、諸藩の賓客を率いて殯宮に哭す
・持統2、11月11日 遺体を大内稜に葬る
これを見ると、全期間2年2か月のちょうど中間時点で大内稜が作られ、その後も儀式が続いたことが伺える。この儀式には、安井氏によれば二通りあった。
一つは「誄(しのびごと)」というものである。皇太子をはじめとした皇族や高級官僚たちが奉る天皇賛美の儀式である。この儀式を通じて皇族や官僚は天皇と自分との密接な関係を再確認し、天皇の偉大さを賛美する。
これに対して、僧尼が奉るものを「哭(みね)」という。これは恐らく仏典の読経だったと思われるが、天武の葬礼以前には見られなかったものである。
この伝統的な殯の儀式と新しい仏教的な儀式との融合を、山折氏はつぎのように表現している。
「こうして天武に対する葬送の全過程は、現象的には、世俗的追悼としての「誄」と仏教的追慕としての「哭」の統合として演出されていたことが明らかである。そしてこれを多少とも内面的にみるならば、例の遊離魂の蘇生を期待する固有の霊魂観と、生命体の消滅を究極の無常性ととらえる仏教の脱霊魂観との、矛盾的な統合の試みであったとすることができるかもしれない」
関連サイト: 日本民俗史
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