牧原憲夫「民権と憲法」

| コメント(0)

本書(牧原憲夫「民権と憲法」岩波新書)がカバーしているのは、西南戦争の終了から明治憲法下で日本的立憲体制が確立されるまでの期間である。明治維新を演じた主役たちが退場して、その後に残された脇役たちを中心に、いかにして日本という国家の形を作り上げていくか、その歴史的な課題を巡って、様々な勢力がせめぎ合い、その中から日本的な立憲体制が確立されていく過程をフォローしているわけである。

著者が最も注目している社会的な勢力には三つある。政府、民権派、民衆である。政府を一つの社会的勢力として相対化するのはちょっと異様かもしれないが、西南戦争終了時点の政府は、事実上薩長を中心にした藩閥勢力であった。露骨な利権意識を持っていたし、日本という国を動かしていく面では、色々な意味で正統性に問題を抱えていた。それ故、普遍的な政治形態としての政府に向かっての、過渡的な政治形態であったといえるわけであり、その意味で当時の日本の政治権力を巡るせめぎ合いの、ひとつのプレーヤーに過ぎなかったともいえるわけである。

民権派の方も、主力は明治維新を演じたプレーヤーの端くれたちだった。しかし彼らは、薩長藩閥勢力に権力を独占されて、政治の表舞台から追い出されてしまった。それ故民権に名を借りた彼らの政治闘争は、薩長専制から権力を奪い取ろうとする側面を持っていたわけである。その運動に、主に西日本の士族たちが呼応して、薩長専制を打破し、自分たちも権力の運用に加われるような政治体制を目指したというのが本当の姿だったといえる。

これに対して民衆は、どんな動機をもっていたのだろうか。民衆と言っても、一枚岩ではなく、さまざまな階層からなっていた。また、目指す方向も様々だった。この民衆が、時には民権派と組んで反政府運動をするかと思えば、時には民権派と組んだ政府によって激しく弾圧されたりもする。しかし民衆は自由民権運動の期間を通じて侮りがたい力を発揮したのであって、彼らの存在がなければ、日本の近代史は今とは異なったものになっていただろう。民衆は最終的には、天皇にとっての臣民と言う枠組みの中に取り込まれてしまうのであるが、絶えず政府にプレッシャーをかけることで、明治政府が専制化するのを防ぐ役目を果たしたのではないか、そう著者はいいたいようである。

そもそも、徳川時代の庶民というものは、統治者との関係ではあくまでも自分たちを被治者として自覚していた。農民は年貢を納めるが、そのかわりに政治のこと(たとえば藩のために命を懸けて戦うこと)にはかかわらないでいることを「権利」として考えていた。統治者が統治の責任を果たさず、被治者を苦しめるようなことがあれば、蓆旗をたてて一揆を起こすこともあったが、それはあくまでも統治者の善政を求めての決起であって、自分らが統治の主体になろうなどとは、夢にも考えなかった。

ところが、自由民権運動の時代の庶民は、みずから積極的に、政治的な言動をするようになった。日本の歴史上、庶民がこれほどまで広範囲に政治的な意識に目覚めたことは初めてだったのである。それには皮肉な背景がある、と筆者は考える。

板垣ら自由民権運動のスローガンの一つに、「租税を納める者は税の使い道に口を出す権利がある」というものがあった。近代的な民主主義思想の基本ともいうべきこの考え方を、板垣らは西洋の民権思想から学んだのであったが、実は、当時の日本の現実からすると、租税を負担する者とは、地主たちだったのである。というのも、維新政府の財政は地租が支えていたのであり、その地租の納入者は地主たちだったからである。それ故、自由民権運動には、士族たちのほかに地主も加わるような、利権的な背景があったともいえる。

もうひとつ、庶民の政治意識を高めたものとして、徴兵制がある。徳川時代の庶民は、政治権力から排除される代わりに、兵役の義務を免れていた。それが御維新の時代になると、庶民にも兵役が課せられるようになった。このことが、庶民の政治意識を固め、政府に対抗させるエネルギーを供給したのだといえるのだ。

それ故、薩長藩閥を中心とする明治政府は、一方では不平士族の集まりである民権派と戦いながら、民衆の政治意識にも絶えず注意を払わなければならなかった。彼らの目的は一つ、薩長藩閥による有志専制をどのように確保していくか、ということである。彼らにはまだ強固な政治基盤が確立していないし、統治の正統性も身に帯びていない。必要なことは、統治のための政治基盤を固めることと、統治の正統性を確立することだった。

彼等はそれを、どこに求めたか。明治天皇である。彼らは、明治天皇を玉に担ぐことで、自分たちの統治に正統性を付与し、またその正統性にもとづいて、物理的な政治基盤を固めようとした。

伊藤博文が中心になって作られた明治憲法と、それに基づく立憲制的な権力構造は、薩長藩閥政府による統治が貫徹されるための条件を整えるための、極めて巧妙な仕掛けなのである。

それは一方では、憲法外的な様々な制度(元老制度や参謀本部など)と天皇主権的な統治構造の組み合わせを通じて、薩長の藩閥勢力が、政敵を排除して権力を独占することを可能にするとともに、民衆を天皇の臣民として一律平等に組み入れることによって、民衆の中にある差別(参政権のある国民と参政権を持たない非国民の差別)を解消する働きをすることとなる。

この体制は、伊藤らが参考にした西欧のどの体制の引き写しでもなく、極めて日本的な政治システムであることは、明白にいえることだろうと思う。


関連サイト日本史覚書





コメントする

アーカイブ