暴走老人か? 耄碌爺さんか?

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老いて耄碌することを老耄というが、近頃では老いて意気盛んなことを暴走というらしい。というのも、東京都の石原知事が、都知事の座を擲ってまでも国政に活を入れたいと、老人仲間を糾合して新党を結成し、その旗揚げの席で自分らを暴走老人と称したのだ。

暴走老人とは何となく聞かせる言葉ではないか、筆者も自己紹介する機会があれば、(壺齋老人という具合に)老人と称しているから、この言葉には抵抗がない。いまは、老人といって隠居をきめこめるような時代ではない。老人と雖も、働ける奴はどんどん働くべきだ。

とはいっても、それは耄碌していないことが条件だ。耄碌した老人の暴走ほどはた迷惑なことはない。

ところで、石原老人の最近の言動に些かの老耄ぶりを感じるのは筆者だけだろうか。尖閣諸島をめぐるパフォーマンスといい、突然都知事の座を放り出したことといい、そこには政治家としての責任をどう考えているのか、人をして懸念せしむるところがある。

石原老人の石原老人らしいところは、自分の信念に忠実なところだ。マックス・ウェーバーいうところの心情倫理というやつにのめり込むところが石原老人のトレードマークともいえる。しかしその余り、政治家としてもっと大事だとウェーバーがいう責任倫理については、石原老人はとんと頓着している様子がない。自分の行動の結果世間が大騒ぎになっても、それは自分が間違っていたからではなく世間が悪いからだと、駄々っ子のような言い方をして胸を張っている。

駄々っ子みたいな老人程迷惑なものはない。老人は老人らしい分別をわきまえてこそ、初めて老人の名に値する。

老人としての分別をわきまえず、ひたすら駄々っ子として振る舞うのでは、暴走老人とは言えない。そういう老人のことを世間では、耄碌爺さんというのである。

(追記)「暴走老人」とは田中真紀子大臣が石原老人を評していった言葉だそうだ。さすが真紀子さん、当意即妙なネーミングだ。


関連サイト:日本の政治 





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