日本による台湾の植民地化

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日清戦争がもたらした結果のうち最も重大なものは日本による台湾の植民地化だろう。しかし台湾の領有はそもそもの戦争目的には含まれていなかった。目的はあくまでも、朝鮮を清国の影響から切り離すことだった。それが一転して台湾割譲という事態に至ったのは、期待以上にうまくいった戦局の進展を踏まえ、一気に台湾をもぎ取ってしまうチャンスが訪れたからである。

台湾領有の利点は、そこが南進の拠点となることだった。当時の日本政府の基本方針は、北守南進というもので、北ではロシアの脅威に備えるために朝鮮を日本の影響下に置き、南では南洋に展開するために台湾を拠点にしようというものだった。その台湾が、大した苦労もなく、いわば牡丹餅式に手に入るチャンスがやってきた。それを見逃す手はない。

こういうわけで、日清戦争が実質的に終了し、講和条約交渉の準備に入った段階で、日本側はあわただしく台湾占領に踏み切った。占領の既成事実をもとに、台湾割譲を無理に飲ませようとしたわけである。

その思惑が成功し、下関条約(1895年4月17日締結)で台湾は日本に割譲されることになった。しかし台湾割譲手続(6月2日)が終わっても、台湾での戦争状態は終了しなかった。現地民や中国人による抵抗が続いたからである。

初代台湾総督樺山資紀が台湾平定宣言を出したのは、同年11月18日のことである。この平定のために、日本は約7万6000人の兵力を投入、そのうち5320人にのぼる死傷者を出した。一方台湾側は兵士・住民併せて1万4000人の犠牲者を出した。

平定宣言後も抵抗が止んだわけではない。特に現地民の抵抗が強く、各地で高山族が蜂起した。それらが最終的に鎮圧されるのは1902年のことである。この間に、「土匪の台北を襲うこと2回、台中を襲うこと2回、その他各所の守備隊弁務処支庁憲兵屯所を襲うこと50数回、巡査派出所襲撃などは枚挙に遑あらず」(矢内原忠雄「帝国主義化の台湾」)といった有様だった。

土匪の鎮圧はじめ、初期の台湾統治に果した後藤新平の役割は大きい。後藤は児玉源太郎が1898年に4代目の台湾総督に任命されると、児玉に引っ張られる形で台湾の民政局長に就任した。後藤は薩長藩閥勢力とは異なって東北の出身だが、なかなかの能吏ぶりが児玉の評価するところとなり、抜擢されたのだった。

後藤が初期の台湾統治に活用した手法は、土匪の殺戮と保甲制度だった。

土匪の殺戮に関しては、後藤自身が1914年5月に東京で行った講演のなかで、1896年から1902年までの間の「匪徒殺戮数」の概要を明かしている。それによれば、「捕縛もしくは護送の際抵抗したため」5673人、「判決による死刑」2999人、「討伐隊の手によるもの」3279人、計1万1951人を殺戮したが、そのうち裁判を経たものは3000人に過ぎなかった。残りの9000人について、後藤は次のように語っている。

「帰順章交付のため警察署弁務処支署等へ呼び出し、訓令を加え、これに抵抗したものはこれを殺戮することを予定し、同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであります・・・土匪帰順法は・・・天皇の大権にわたる生殺与奪の権で・・・帰順させたもののなかには良民たるべきものと不良民にして到底ものにならぬ奴がある、まず仮帰順章を与えて若干月日監視し選び抜いてその悪い者を同日同時に殺したのであります」

殺戮を語ってあっけらかんとしているところが、いかにも後藤らしい。

「保甲制度」というのは、中国にあった民衆監視制度で、民衆を相互に監視せしめ、すべての罪悪に連帯して責任を負わすものだった。日本の連座制のようなものだ。これを過酷に運用することによって、不満分子の摘発と治安の維持を図ったわけである。

台湾統治の問題をもっと大きな視点から見ると、そこには明治憲法を頂点とした国内の統治体系があり、それについて植民地の統治のあり方をどのようにかかわらせるかという問題があった。

伊藤らは、植民地経営への議会の介入を極力おさえながら、台湾総督府が暴走するような事態も防ぎたかった。そこで台湾総督府を政府の強力なコントロール下に置きながら、しかも議会の介入を排除できるような方策を考えた。台湾総督に、天皇の勅裁を受けたうえで、法律と同等の効力を持つ命令を発する権限を与えたのである。これによって台湾には、国内の憲法秩序とは異なった、独自の法体系のもとでの植民地支配の秩序が適用されるようになった。

この秩序の体系を、後藤は後藤なりに、天皇の大権にもとづく統治と受け取っていたわけであろう。

ところで、日本による台湾統治には、統治される台湾自体にとっても、利点がなかったわけではないという言い分が、一部の間でなされている。そうした言い分は、「進んだ日本の技術や資本」を「遅れた台湾」に導入したことによって、台湾の近代化が図られたということを強調する。また、日本が仮に台湾を領有しなかったとしたら、他の列強諸国によって侵略されていたかもしれないと主張する。そういう連中は、欧米列強に支配されるよりも、日本の植民地になったほうがずっと、台湾の人にとっては幸福だったはずだというのであろう。


(参考)原田敬一「日清・日露戦争」(岩波新書)


関連サイト:日本史覚書





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