原敬と浜口雄幸

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原敬と浜口雄幸は、ともに大正デモクラシーを代表する政治家ということになっている。二人とも大正デモクラシーの落し児としての政党政治の体現者であり、政党の力をバックに政権を握った。その為すところの目的は、薩長藩閥勢力から民衆の手へと、権力を取り戻すことだった。その結果ふたりとも右翼に憎まれて暗殺された。そこから、ふたりとも命を張って日本の民主主義の発展に尽くしたという神話が出来上がったわけだろう。

ふたりのうち原敬のほうは、日本憲政史上初の本格的政党内閣を率いたとして、歴史的な評価がとりわけ高い。それに比べて浜口の方は、容貌が地味なこともあって、原ほどは人気がないが、その業績は原に劣らないものがある。憲政の大道という点ではむしろ原より進歩的だったといってよいかもしれない。

歴史学者の成田龍一氏は原敬を比較的素直に評価している(「大正デモクラシー」岩波新書)。氏は原内閣を米騒動によって実現した内閣だとしたうえで、その歴史的な意義を、旧来の閥族政治に替って政党政治を根付かせるきっかけになったことに求めている。それを可能にしたのは、米騒動などに現れている民衆の意思であったから、原もそうした民衆の意思を無視できなかったというか、その意思に乗ったという点で、一定の進歩性を持ったということができるのだろう。

原は民衆に人気があった。盛岡藩の出身で薩長藩閥勢力とは縁がなかったことや爵位も持たなかったことから平民宰相と称され、民衆の好意を集めた。容貌も気さくさを感じさせて、いっそう原の魅力を引き立てた。

しかし原自身の日頃の立場は、徹底した民主主義の精神とは必ずしも一致したものではなかった。彼の基本的な立場は、内政面では国力伸長であり、外交面では帝国主義の追及だったといってよい。

原は組閣後四大政綱なるものを発表したが、それは、①教育施設の改善充実、②交通機関の整備、③産業及び通商貿易の振興、④国防の充実、というものだった。つまり、内政面においては、産業の振興とそれを支える人材の確保を眼目としており、外交面では、帝国主義的海外進出を可能にさせる軍備の充実を目指していたのである。そこには、民衆の当面の生活よりも、国力の充実を優先する姿勢が現れている。

こうした原の姿勢をとらえて、むしろ原の反動性を強調するのは、板野潤治氏である(「日本近代史」ちくま新書)。板野氏は、「大正デモクラシーの内容を普通選挙制と二大政党制と定義すれば、原敬はそのどちらにも反対した」として、原敬の反動性を強調する。

これは政策ではなくて、統治のあり方に対する姿勢を取り上げて、その進歩的か反動的かを問題にするものであるが、たしかに原敬の場合には、民衆よりも薩長藩閥勢力のほうに目を向けながら、妥協を図ることに重きを置いていたフシがある。たとえば、米騒動の最中に盛岡にいた原は、もっぱら薩長との調整に腐心し、民衆の方には顔を向けていなかったともいわれる(成田)。

普通選挙制の導入には原は、時期尚早として最後まで反対した。原のやったことはせいぜい、所得要件を緩和して有権者の数を増やした程度だった。また原は、政敵である政党に権力を引き渡すよりも、閥族政府に引き継いだ方がましだと考えていた。実際、日露戦争後の政局において、原は政友会が与党となった政権を離れる時には、野党第一党の憲政会に政権を譲らず、元老山県有朋が率いる軍閥・官僚閥に内閣を譲っている、と板野氏もいっている。また、原の死後に政友会が政権を離れた際にも、加藤友三郎による超然内閣が復活しているのである。

そんな原を吉野作造は、「政治を哲学と科学から離し、まったくいきあたりバッタリで行くべき筈のものとする、世界無比の奇形的政治家」と評したと板野氏は紹介している。けだし「原敬に普通選挙法をつぶされ、二大政党制までも否定された」吉野としては、自分の民本主義が完敗したことを思い知らされたことであったろう。

原と閥族勢力が共同して阻害していた憲政会が初めて政権を握るのは加藤高明内閣の時、清浦圭吾内閣に抵抗した護憲三派運動の成果としてだった。総選挙の結果憲政会が第一党になったため、元老たちもさすがにそれを無視できなかったのである。

加藤内閣には、外務大臣に幣原喜重郎、内務大臣に若槻礼次郎、大蔵大臣に浜口雄幸が入ったほか、政友会総裁の高橋是清と革新倶楽部盟主の犬養毅が入り、連立政権となった。この政権の最大の課題は普選であったが、加藤内閣はそれを実現した。その点で、吉野作造によって提起された大正デモクラシーの二大課題を、いずれもクリアしたといえよう。

浜口内閣は、田中義一政友会内閣が張作霖爆殺事件の責任をとって辞職した後に成立した。ここからわかるように、浜口内閣は、大正デモクラシーの成果の上に立って登場したという側面と共に、政党政治が終わって軍閥政治がのさばりだす新しい時代の始まりに登場したという側面をも持っている。つまり歴史の曲がり角に現れた政権であると言える。

浜口は立憲民政党の総裁であったが、民政党の前身である憲政会は、内政面では労働者の権利拡大を中心にした社会政策の遂行、外交面では協調外交を党是としていた。田中政友会内閣が、弾圧的な内政と強行外交に走ったのとは対照的である。この憲政会の党是としての政策を、浜口は忠実に実行しようとしたわけである。

浜口は1930年11月14日に暗殺された。原敬と同じく東京駅においてである。統帥権干犯問題や折からの不景気に不満を抱いていたという一青年の犯行であった。どちらの問題も、日本にとっては頭の痛い問題だった。それらの解決に向かって引きずられるようなかたちで、日本はやがて、軍国主義的な体制へと突き進んでいくのである。


関連サイト:日本史覚書 





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