リチャード・クー、竹中平蔵を叱る

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1990年代以降の日本の不況をバランスシート不況だと定義づけるリチャード・クー氏は、問題を解決するカギは政府による財政出動だと主張する。そして現実の日本政府の財政運営が、おおむねそういう方向をとったために不況が深刻化せず、恐慌に陥らずに済んだと評価するわけであるが、日本経済はその過程で二度のゆり戻しを経験した。1997年から1998年にかけての不況の深刻化と、2002年以降の銀行危機である。どちらもマネタリスト的な発想による政策によって、経済に有害な影響を与えた結果であった、と氏はいう。

1997年の不況の深刻化は、当時の橋本政権が財政赤字削減という軽率な試みを始めた結果だった。体力が回復していない患者に過大な運動をさせるようなもので、日本経済はみるみる不況に突入したわけである。この不況が終わったのは、橋本政権の後を継いだ小渕政権が積極的な財政出動に舵を切り替えたことの結果であった。

2002年以降2003年(「デフレとバランスシート不況の経済学」執筆時点)までの日本経済は、小泉政権の場違いな政策がもたらしたものだ、と氏は言う。その政策遂行の中心となったのは竹中平蔵である。この竹中平蔵を氏は、米大恐慌時代の財務長官アンドリュー・メロンに譬え、日本経済のかじ取りを間違った方向にもっていったと厳しく批判している。批判というより、叱責というに近い。

メロンの主張は、「体制から腐敗を一掃すれば価格は適正になり、企業家が瓦礫の中から乗り出すだろう」(上記書69ページ)とし、不良債権や非効率な企業部門を徹底的に淘汰して構造改革を進めるべきだというものであった。その点、小泉内閣の構造改革路線と全く発想を同じくしていた。つまり小泉内閣は、大恐慌を一層泥沼に導いていったメロンの構造改革路線を、70年後の日本でも実施した訳である。

小泉政権が場違いな「構造改革」路線にしがみついた背景には、1980年代のレーガノミックスの成功があった。レーガノミックスはサプライサイド・エコノミックスの考え方に立って、経済の構造改革を行おうとするものだが、それが成功したのには時代の背景があった。レーガンが登場した時、アメリカ経済には需要はありあまるほどあった。それに対して労働者のストライキなどで供給が制限されたために物価はインフレ傾向を呈していた。そのような状況では、供給能力を高めることを目的とした構造改革路線は成功するのである。

ところが、小泉政権が直面していた日本経済は、需要が徹底的に不足していた。そこに構造改革を施すことは、疲弊した体に毒を盛るようなまねだ、というわけである。

竹中平蔵が犯した過ちはいくつもあるとしながら、その中でも日本経済に致命的な打撃をもたらしたミスとして、氏は三つほどあげている。

一つ目は不良債権問題への対応である。竹中はアメリカで生じたS&L問題の処理を参考にして、日本でもそれを応用しようと強く主張した。これは破たんしかかったS&Lの不良債権を受け皿の金融機関(RTC)に買わせて、S&Lの再建と淘汰を進めようとするものだった。その結果アメリカは1600億ドルの税金をつぎ込んで不良債権の処理を成功させた。その成功に幻惑されて、竹中も二匹目のどじょうを狙ったわけである。

しかし、S&Lは当時のアメリカの金融市場でわずか5パーセントのシェアがあったにすぎない。その小さな部分で淘汰を進めても、経済全体には大きな影響はない。ところが竹中が直面していた日本の金融市場では、すべての銀行が深刻な不良債権問題を抱えていた。そんなところで、強制的に不良資産を処理しようとしたら、資産価格の一層の下落をもたらし、日本経済はますます体力を消耗してしまう。竹中にはそこのところがわかっていなかった、というのである。

二つ目はペイオフ解禁である。竹中はペイオフ解禁を強硬に主張したが、その根拠には合理性がなかった。竹中はペイオフこそグローバルスタンダードであり、諸外国では預金保険の上限以上の預金は保護されていないなどといったが、それは事実ではないと氏は言う。ペイオフの制度を持っていたのは当時アメリカだけであり、そのアメリカでも運用には慎重だったというのが事実なのである。だから竹中は国民をミスリードしていたということになる。

ペイオフは議論するだけで景気に悪い影響を与える、と氏は言う。銀行に対する国民の信頼を損なうからである。しかも日本の実態を見ると、1000万円以上の大口預金者の大部分は企業である。企業が従業員への給与支払いなどのために、大口の預金をしているのである。だとすれば、ペイオフが実施されると聞いた企業がどんな行動に出るか。そこのところを竹中は全くわかっていなかったわけである。実際に、小泉政権がペイオフに踏み切ることが明らかになった2001年の終わりには、日本経済は一段と冷え込んでしまった。

三つ目は銀行への資本注入問題を巡る対応である。竹中は2002年10月に金融相に就任すると、銀行の経営改革が予定通り進んでいないことをやり玉に挙げ、2002年の年末までに資本注入の申請をしなければ、国営化を含むとんでもない結果を招くと銀行業界を恫喝した。いわゆる「竹中ショック」である。

しかし当時銀行業界のバランスシートが改善していなかったのは、当局が銀行に対して貸し渋りの解消と不良資産の処理を優先させるように指導していたからだった。そもそも銀行への資金注入政策自体が、貸し渋りの解消を目的としていたのであり、特に銀行の経営改善を狙ったものではなかったのである。また銀行の経営改善につながるほど、用意されていた金額は多くなかったのである。

竹中は銀行を恫喝する際に、銀行の自己資本の中にカウントされている繰り延べ税金資産が米銀のそれより多いことに触れて、アメリカ式に見れば邦銀は資本不足だともいった。しかし、これは日米両国の銀行行政の違いをわきまえない馬鹿げた言い分だったと氏は言う。

アメリカでは銀行の不良資産処理を促進するため、不良資産の処理に伴う税金《所得税》は免除されている。ところが日本ではそうはなっていなかった。その結果銀行は不良資産の売却代金にも税金を課せられるという馬鹿げた事態が生じていた。そうした事態の矛盾を少しでも和らげるための妥協策として編み出されたのが繰り延べ税金資産の制度だったのである。これは不良資産の処理に伴う税金の納付を緩和する政策で、アメリカにもないわけではないが、趣旨からして日本とは比較にならないのは明らかである。それを竹中は、両国の金融システムの経緯を全く無視して、銀行に対してとんでもない要求をしたわけである。

銀行は無論国の資本注入など受けたくなかった。そこで銀行がとった行動とは徹底した貸し渋りだった。そうすることでバランスシートを改善しようとしたのである。その結果、日本の経済はますます悪化したわけだ。

以上のような竹中の行動を評して、氏は「害多くして益なし」といっている。


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