アプリオリな総合判断:カントの純粋理性批判

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カントがアプリオリな総合判断を重視したのは、経験から得られる認識すなわち総合的な認識の中にも普遍的で必然的な真理が含まれていることを証明するためであった。そうすることで、因果関係についてヒュームが下した結論を覆し、人間の認識は経験に根差しながらも、(因果関係を含めて)普遍的・必然的な真理に達することができるのだと主張したかったわけであろう。

ヒュームが言うように、アポステリオリな総合判断からは、個別的で蓋然的な認識しか得られない。認識に普遍性と必然性を付与するのはアプリオリな判断である。ヒュームはそうした判断は、純粋に形式論理的な判断であって、人間の個別の経験とはまったく次元のことなるものだと考えたわけだが、カントはそうではないという。個別の経験の中にもアプリオリな判断が働いている場合がある。それをカントはアプリオリな総合判断と呼んだ。アプリオリな総合判断というものがもしあれば、それはカントがいうように、普遍性と必然性を主張できるだろう。

カント以前にあっては、アプリオリな認識とは、個別の経験を超越した認識のことを指して言った。その中には、神は存在するとか、自由は必然的であるとか、魂は不死であるとか、形而上学的な命題も含まれてはいたが、それとは別に、たとえば数学の命題のようなものもアプリオリな真理とされていた。それがアプリオリなのは、その正当性が純粋に論理だけに支えられており、個別の経験とは何ら関連を持たないからだとされた。たとえば、「AはAである」あるいは「Aは非Aではない」といった命題がそれだ。これらは、主語の中に述語が含まれている(同一律)か、あるいはそれを反対の面からいいあらわしたもの(矛盾律)である。そのような命題を分析的な命題と言うが、これらの命題はすべて論理だけで成り立っているのである。

ところがカントは、総合的な(経験にもとづく)命題にもアプリオリなものがあるといって、それをアプリオリな総合判断と呼んだ。それは、経験に先立つアプリオリな能力を、経験にあてはめることによって、可能になる。つまり人間の経験的認識の中には、外部世界から触発された結果起こる(受け身な)経験的認識と、人間固有の能力が加わって成立する(能動的な)経験的認識がある。カントはそう考えたわけである。

ところでカントは、アプリオリな総合判断の好例として数学の命題をあげる。カントは「数学的な判断はすべて総合的な判断である」(中山元訳)といっている。たとえば「7に5を加えると12になる」という命題は一見分析的にみえるがそうではない。「7を5に加えるべきであるということは、わたしはすでに7と5の和という概念において考えているが、この和が12であるということは、この概念のうちではまだ考えられていなかった」のであるから、この命題は分析的ではなく総合的なのである。総合的とは、論理上関係のないものが結びついて第三の帰結をもたらすような判断のことなのである。カントはこういって、「算術の命題はすべて総合的なのである」と結論するのだ。

同じようにして「直線は、二つの点を結ぶ最短距離である」という命題も総合的な命題である。なぜなら、「まっすぐなというわたしの概念には、量の概念はまったく含まれず、質の概念が含まれるだけだから」とカントはいう。直線の概念に最短距離と言う概念を結びつけるのは、総合的な判断だというわけである。

数学のみではなく、自然科学(物理学)も「アプリオリな総合判断をみずからの原理として含んでいる」とカントは言う。たとえば質量保存の法則や作用・反作用の法則を見てみよう。それらがいずれも必然的であり、したがってアプリオリに作られた命題であることは明らかであり、しかもこれらの命題が総合的な命題であることも明らかなのである。

このように、数学や物理学の領域でアプリオリな総合判断が見られることが指摘できれば、経験的な領域においても、アプリオリな総合判断は働いていると指摘できるはずだ。カントはそう考えたわけである。

カントはアプリオリな総合判断が人間の経験的な認識に普遍性と必然性をもたらす根拠になっていると主張したかったのである。そうすることで、因果律のような自然法則にも普遍性と必然性をもたらすことができる。そのことで、ヒュームの不可知論から解放されると考えたわけであろう。

しかしその後の数学の発展によって、カントが算術の命題を総合的としたことについては、有力な反論が現れた。算術の方程式が分析的であることはフレーゲによって証明されたし、二点間を結ぶ最短の線が直線であるとする主張は非ユークリッド幾何学では否定されている。

フレーゲは、5も7も12も単位数の和に分解できることに着目したうえで、5+7=12は単位数を同じだけ加えた計算に還元されるとして、同じものの和が互いに等しいことは分析的に自明なことだから、これは分析命題なのであると言っている。(中山元「純粋理性批判」への解説)

こうしてみれば、カントが示した総合命題の実例はどれも分析命題であったということになり、したがってアプリオリな総合命題なるものは根拠を失うということになる。

ということは、カントの主張は根拠がくずれて、ヒュームの懐疑の時点にまで、我々は連れ戻されたということになるのだろうか。

いずれにしても、カントの哲学の根本部分が、アプリオリな総合判断は存在するという信念の上に築かれていることは間違いない。その信念は、神は存在するという信念と同じ程、カントにとって決定的なものだったといえる。


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