隆興元年(1163)、陸游は政事堂に召され、機密文書二通の作成を命じられた。いずれも金との戦争に深くかかわるものであった。一つは、西夏の国主に贈る書簡であって、宋と協力して金を亡ぼそうと呼びかける内容であった。
もう一つは、金の支配下にある地域の漢人たちに向かって、武装蜂起を促す内容だった。金に打ち勝って失地を回復することを終世の抱負としていた陸游にとっては、またとないやりがいのある仕事だったに違いない。仕事がうまくいけば、陸游にとって出世のチャンスともなる。
しかし陸游の期待は実らなかった。再び講和派が台頭して主戦論を抑え込んでしまったからである。陸游は危険な人物とみなされ、中央から放逐されるように、地方転出を命じられる。文書を起草したのが同年の2月、転出の拝命が5月と言う、異例に早い展開だった。
陸游にとっては無念な展開であったに違いない。彼はその思いを、同時期に記すことはなかったが、後年になって振り返っている。二紀つまり24年後に、厳州の知事であったときに作った作品「燕堂春夜」もその一つである。
燕堂春夜(壺齋散人注)
南楼沈沈下疏更 南楼沈沈として疏更を下す
一点纱籠満院明 一点纱に籠めて満院明らかなり
映月疏梅入簾影 月に映ずる疏梅 簾に入る影
読書稚子隔窗声 書を読む稚子 窗を隔つる声
呻吟薬裹身寧久 薬裹に呻吟しては身は寧ぞ久しからん
汛掃胡塵意未平 胡塵を汛掃せんと意未だ平らかならず
草檄北征今二纪 檄を北征に草して今や二纪
山城仍是老書生 山城に仍ち是老書生
南楼には時を告げる鐘が沈沈と鳴り渡る、灯を籠に焚けば部屋中が明るくなる、月光を浴びた梅の枝が簾に映り、読書する稚子の声が窓を隔てて聞こえてくる
薬の世話になっていてはもう長生きはできまい、それでも胡塵をたいらげようとする意気だけは盛んだ、北征を促す檄を書いてからもう24年たつが、こうして山城の中で老残の生をむさぼっている
関連サイト:漢詩と中国文化
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