八重の桜

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會津の女傑として知られる山本八重の生涯をテーマにしたNHKの大河ドラマ「八重の桜」が始まった。筆者はかねてから期待していたので早速見た次第だ。初回早々に會津城攻防の場面が出てきて、男装した八重が鉄砲を撃つシーンもあったりして、この先なかなか面白くなりそうなことを予感させた。

一回目は八重の少女時代を描いていた。幼い八重を演じた子役が、表情豊かで、見る者をうならせた。その八重を巡って、会津藩の家老西郷頼母と八重の兄覚馬が印象深く映った。会津城落城の際、西郷の妻女たちは足手まといになることを畏れて尽く自殺したと、津村節子さんの小説「流星雨」にあった。あらかじめ頼母に言い含められていたのだろう。

その頼母の生き様のわかるシーンがあった。他家から養子に入ってきた容保が、よそ者の自分でも会津の当主が務まるかと不安を漏らした時のことだ。自分らが身命を擲ってお支えするからご心配には及ばない、そのかわり、曲がったことをなさったら諫言申す、わしらは代々そうやって生きてまいりました、と頼母が言う。これは葉隠の精神そのものだ。

葉隠は武士道の精神を説いたものだが、その武士道の精神とは、「君君たらざるとも臣臣たらざるべからず」という、主君への一方的な献身を中核にしている。そこが西洋の封建精神とは違うところで、主従の結びつきは契約関係ではなく絶対的な結合関係だ。それ故主君が暗愚であっても見捨てるようなことはしない。そのかわりに主君を善導してまっとうな人間に鍛え直そうとする。そこが日本的な諫言のエートスなのだ。

この武士道のエートスを取り上げて、そこに日本的な「忠誠と反逆」の縺れ合いを見たのは丸山真男である。このドラマの脚本家は、丸山の説を意識して、頼母に上のような言葉を吐かせたのだろうか。

山本覚馬のことを筆者が知ったのは山口昌男氏の「敗者の精神史」を通じてだ。この本では、覚馬は京都の再生に尽くした人物として紹介されており、青年時代のことには触れていない。それ故このドラマを通じて、覚馬の青年時代を知ることになったわけだ。その彼が若き日の吉田松陰と懇意であったり、また佐久間象山の門を叩いたことがあったなど、ちょっとした驚きだった。また覚馬がペリーの船に乗り込んでみたいと云うシーンが出てくるが、実際にペリーの船に乗り込んで罰せられたのは吉田松陰のはずだ。象山もその片棒を担いだ咎で謹慎処分を受けている。その辺の史実がどのように整理されているのか、初回を見た限りではわからなかった。次回以降が楽しみだ。

八重の母が山川家の家族に挨拶するシーンがあった。山川家の当主は山川大蔵で、その妹さきは、維新後捨松の名を与えられて米国留学に赴き、後に大山巌の夫人となった人だ。山川大蔵の方は、艱難辛苦の挙句陸軍に入り、西南戦争に出陣して、憎い仇西郷隆盛を討ったことで意趣返しをしたものだ。その辺のところは、会津人柴五郎が残した遺書に詳しく書かれている。


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