昭和の大横綱大鵬死す

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大鵬と言えば、筆者のような団塊の世代の日本人にとっては、少年時代の憧れの力士だった。12勝3敗の好成績で衝撃的なデビューをしたのが昭和35年の初場所。そのとき筆者は小学校の五年生だったが、彗星のように現れたこの力士に日本中が盛り上がったのを覚えている。その後順調に出世を重ね、柏戸とともに相撲界をリード、柏鵬時代と言われる相撲の黄金時代を演出し、自身三十二回の優勝を達成した。この記録はいまだに破られていない大記録だ。いかに偉大な横綱だったかが良くわかろうというものだ。

その大鵬さんが七十二歳で亡くなった。かつての熱心な相撲好き少年だった筆者から、深い哀悼の気持ちを捧げたい。

大鵬さんは樺太で生まれた。父親はウクライナ人だった。敗戦後父親と別れた母親はソ連軍に追われて樺太を脱出、日本行きの最後の船に乗って、命からがら逃げてきたという。その船は小樽行で、大鵬一家も小樽まで行くはずだったものを、母親が船酔いなどで体調を崩し、稚内で下車した。人間どこで運命の分かれ道に出会うかわからない、というのも、その船は小樽に向かう途中魚雷に沈められ、千数百人の乗員は海の藻屑と消えたのだった。

内地に逃げてきた納谷幸喜少年(大鵬の本名)は、貧しい家計を支えるために必死になって働いた。彼の強靭でかつ柔軟な体は、少年時代の力仕事を通じて培われたということだ。その点筆者の好きだったプロ野球選手稲尾さんとよく似ている。二人とも国民の一人一人がまだ貧しかった時代に、日本人のハングリー精神と夢を見させてくれた。

横綱時代の大鵬は本当に強かった。柏戸とともに柏鵬と並び称されたが、安定した強さと言う点では柏戸を上回っていた。それでも柏戸は度々大鵬に土をつけた。もし柏戸がいなかったら、大鵬の優勝回数はもっと多かっただろう。いずれにしても大鵬は良きライバルを得て、相撲人気を盛り立てた。その人気は少年たちをもとらえ、筆者のような痩せた小僧たちまで小学校の校庭で相撲をとったものだった。

ともあれ大鵬はあらゆる点で傑出した大横綱だった。こんな横綱はもう、日本人の間からは二度と現れないかもしれない。そう思うと、大鵬関への敬意はますます強まるばかりだ。(写真はオフィシャルサイトから)





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