昭和天皇の政治感覚

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豊下楢彦氏は、安保条約の成立に昭和天皇が強い役割を果たしたことを強調しているが、昭和天皇はそれ以外の面でも、政治的にみて非常にきわどい言動をされていたと批判している。きわどいというのは、天皇はアジア・太平洋戦争の最高責任者として言動を慎まなければならない立場にあり、しかも新憲法によって象徴とされて後は、一切の政治的立場から中立であることを求められていたにかかわらず、極めて政治的な言動をやめなかったからだ、というのである。

その最たるものが、安保条約締結への介入であったことはいうまでもない。氏はあくまでも仮説だとしながら、昭和天皇が吉田首相の交渉姿勢に強い不満を感じ、自ら交渉のプロセスに介入することで、いわば二重外交のような状況を現出させたと指摘している。それのみならず、吉田を直接叱責することで、事実上アメリカによる単独占領の継続を認めるという、日本にとって屈辱的ともいえる政策を強要したとも言っている。つまり、昭和天皇は憲法によって政治的行動を禁じられているにもかかわらず、高度に政治的な、しかも国の将来を左右するような、ある意味できわめて危ない行動をとった、と氏は批判するわけなのである。

昭和天皇の政治的な言動はさまざまな場面で検証できる、と氏は言う。その一例として氏が注目するのはマッカーサーとの会見での発言だ。天皇は1945年9月27日に初めてマッカーサーを訪問して以来、計11回の会見を行っている。その全貌は明らかになっていないが、一部分については、歴史家の児島襄氏が記録の閲覧を許されるなどして、おぼろげながら明らかにされている。そこから浮かび上がってきた天皇の言葉を分析することによって、当時昭和天皇がどのように考えていたか、その一端を明らかにしようというのだ。

まず、1946年10月16日に行われた第三回目の会見。その席上天皇はつぎのようなことを言った。「日本人の教養いまだ低く、且宗教心の足らない現在、米国に行われる"ストライキ"を見て、それを行えば民主国家になれるかと思う者もすくなからず」

昭和天皇のこの発言は、この年の5月に起こった「食料メーデー」や頻発する労働争議を念頭においてのものだった、と氏は言っている。天皇は、日本人の知能程度は小児並みというマッカーサーの言葉を受けて「日本人の教養いまだ低く」といい、そんな連中の起こすストライキなどの行為を厳しく取り締まってほしいと述べているというのである。

ついで、1947年5月6日に行われた第4回目会見での発言。「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥の御支援を期待しております」

ここには、憲法9条にも国連にもおよそ期待せず、アメリカの武力によって日本の天皇制を守ってほしいとする昭和天皇の本音が露骨に現れていると氏は言う。「この第4回会見のわずか1年9か月前まではアジア・太平洋諸国を危険にさらしていた国家の象徴が、その償いも何ら果していない段階で、しかも戦争放棄の第9条がなぜ求められるようになったのかという歴史的経緯もほとんど認識されていないように、ただひたすら、みずからの国が危険にさらされることのみを考えるという発想には、驚かされるばかりである。ましてや、以上の議論は、天皇が象徴として政治的行為を禁じられた新憲法の施行から三日目に交されていたのである」

天皇はまた、公職追放の緩和についても強く主張した。「(追放の緩和によって)多くの有能で先見の明と立派な志を持った人々が、国民全般の利益のために自由に働くことができるようになるであろう。現在は沈黙しているが、もし公に意見表明がなされるならば、大衆の心に極めて深い影響を及ぼすであろう多くの人々がいる。仮にこれらの人々が、彼らの考え方を公に表明できる立場にいたならば、基地問題をめぐる最近のあやまった論争も、日本の側からの自発的なオファによってさけることができたであろう」

これは1950年の天皇のダレス宛の文書メッセージである。ここで「最近のあやまった論争」というのは、「わたしは軍事基地は貸したくないと考えております」といった吉田の議会発言などをさしているものと氏は推測している。天皇は、アメリカとバーター取引を行おうとする吉田の姿勢に強い不満を感じ、アメリカによる日本の保護を得るためには、日本の側から積極的に基地のオファをするくらいでないといけないと考えていたので、このような発言が出て来たと言うのである。実際この発言を踏まえ、天皇の側近たちを介在させた影の交渉ルートが出来上がり、吉田による公式なルートと天皇による非公式なルートとが併存する二重外交の構図が出現した。これが一国の政治にとって非常に由々しい事態であることはいうまでもない。

次に、昭和天皇はみずからの戦争責任をどう考えていたか。これについては、全く角度の異なった二つの見方が流通することとなった。ひとつは、昭和天皇は戦争責任について深く自覚し、自分一人が批判の矢面に立つとする姿勢だったとするものである。これには、1964年に出版された「マッカーサー回想録」が大いに影響した。この回想録の中でマッカーサーは、第一回目の会見の際に昭和天皇が次のように述べたと書いたのである。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両側面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためおたずねした」

これがもとになって、昭和天皇はご自身の戦争責任を深く自覚していたのであり、退位を含めて具体的な行動で示す用意もあったという見方が成立した一方、昭和天皇をそのまま皇位にとどめたのは、マッカーサー側の意図によるものだったとの見方も流通した。

これに対しては違う見方もある。会見で通訳をつとめた外務省の奥村勝蔵の手記には、「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは、自分のもっとも遺憾とするところであります」とあり、それを児島襄氏が71年11月の文芸春秋史上に発表し、遺憾の意の表明はあるが、全責任発言はみられないとコメントして、大きな議論を呼んだところだ。

その後、「昭和天皇独白録」が出版されたりして、この辺の事実関係は大分明らかになった。この戦争は時の勢いがさせたもので、自分が進んでしたものではない、自分はむしろ消極的な考えであったが、その考えを押し通せばクーデターが起こって廃位されていただろうと、責任を回避するような態度に終始した、というのが大方の理解になっているといってよい。

しかし、戦後も時間が進み、日本の政治が安定してくるにつれ、昭和天皇の発言は慎重になり、ついには政治的な発言を一切しなくなったことは、大方の国民の記憶に残っているところだ。戦後の一定時期まで、昭和天皇がきわめて政治的な姿勢を示し続けたのは、自らの地位と皇室の存続について、重大な関心を持たざるをえなかったことの反映だったのかもしれない。


参考記事:
安保条約の成立 

昭和天皇独白録を読む

単独講和と戦争責任 





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