ニュートンとライプニッツの形而上学論争

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カントが取り上げた四つのアンチノミーは、伝統的な形而上学のテーマと密接な関係がある。それらはいずれも理念的なものを巡る問題なのだが、これらの問題は、プラトンがイデアを発見し、アリストテレスがそれを形而上学の中心テーマに据えて以来、ヨーロッパの形而上学にとっての主要課題であり続けてきたのである。

理念的なもの、すなわちイデアを巡っては、何をイデアとするか、あるいはそのイデアにはどんな存在性格があるかについて、様々な議論があった。カントがアンチノミー論で対象とした四つの理念(世界、実体、精神、神)のほかにも、歴史上様々な理念のタイプが提出されたところだ。その中からあえてこの四つを取り上げたことについて、カントは、小むつかしい議論を展開しているが、カント以前にも、この四つを形而上学の主要理念としてとらえていたものがあった。ニュートンとライプニッツである。

ニュートンとライプニッツは、この四つの理念を巡って、18世紀の初めに激しい論争を行った。今日ニュートンとライプニッツの(形而上学)論争として知られているものである。論争自体は、ニュートンの意を体したクラークと言う男とライプニッツとの間の往復書簡と言う形を取っているが、実質的にはニュートンとライプニッツとの間の論争なのである。

この論争がカントに大きな影響を与えた。カントはこの論争に刺激されて、四つのアンチノミー論を着想したのではないか。カントの翻訳者中山元氏はそのように推測している。その推測がなかなか興味深かったので、ここで紹介してみたい。(中山元「純粋理性批判5」の解説参照)

まず、世界について。ニュートンは、宇宙は無限であり、その中に有限な世界が存在していると考える。それに対してライプニッツは、有限な世界が無限の宇宙の中に存在するということはなく、世界自体が無限だと考える。カントの問題意識からすれば、ニュートンは第一アンチノミーの定立命題(世界は有限である)の立場に立ち、ライプニッツは反定立命題(世界は無限である)の立場になっているわけである。

ニュートンの立場は絶対空間の考え方に立っている。ニュートンによれば、宇宙は無限大の空虚(真空)であり、その中に物質が遊泳している、それが我々にとっての世界である。これに対してライプニッツは、真空と言うものを認めない。空間は物質と切り離せない。物質を取り除くと、その後には真空が残るのではなく、空間そのものが焼滅してしまうのだ。それ故、世界とは無限の物質からなる無限の空間なのだ。

また、ニュートンは、世界には時間的な端緒があったと考えるのに対して、ライプニッツは、そのような端緒はなく、したがって世界は永遠だと考える。この点でも、ニュートンが定立命題、ライプニッツが反定立命題の立場に立っているわけである。

次に、実体について。ニュートンは原子論の立場から究極の単位としての単純なものを認める。その単純なものが空虚の中で結合しあって複雑なものができると考えるのだ。それに対してライプニッツは、そのような単純なものの存在を認めない。なぜなら物質と空間とは密接不可分であり、その空間は無限に分割可能なものであるからだ。ここでも、ニュートンは第二アンチノミーの定立命題、ライプニッツは反定立命題の立場に立っているわけである。

第三に、精神について。ニュートンは人間の精神の自由を認め、自由な意思が因果関係の端緒になりうることを認める。それに対してライプニッツは、基本的には人間の意思の自由を認めない。人間の行為が自由意思に基づくと見えるのは、神がそのように取り計らっている事の結果に過ぎない。人間の行為はすべて、神の意志によって制約されている。ライプニッツにとって、人間とは神の作った時計のようなものである。あまりにも完璧に作られているので、機械であることを感じさせないのである。

第四のアンチノミーとの関連においては、二人とも神の存在そのものは肯定しているから、表向きの対立は生じない。問題は、神が世界を作った後に、それにどのように関わるかと言う点だった。ニュートンは、世界を創造した後でも、神はたえずそれに干渉の手を加える。そうでなければ、世界の動きが止まってしまうからだ、と考える。それに対してライプニッツは、神は世界を創造した後、それに何らの干渉も加えない。そんな干渉をしないでも世界は立派に動いていける。神が世界を中途半端につくるわけがないというのである。この点では、ニュートンは第四アンチノミーの定立命題、ライプニッツは反定立命題の立場に立っているわけである。

こうしてみると、ニュートンとライプニッツが、伝統的な形而上学のテーマを巡って正反対の議論を展開していることがわかる。カントはそれを読んで深い感銘を受けたに違いない。というのも、両者はどちらもまことらしく見えるからだ。何故そうなるのか。そこのところを深く考えるうちに、二律背反を巡るあの議論にたどり着いたのではないか。そう、中山氏は推測するわけである。


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