山川捨松と新島襄

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NHK大河ドラマ「八重の桜」もいよいよ後半に突入して、八重さんも新しい生き方を模索するさまが描かれるようになった。そんな中で、将来八重の夫となる新島襄がいよいよ登場する場面があった。岩倉使節団の通訳に雇われた新島襄が、使節団と共に海を渡ってアメリカにやってきた山川捨松、後の大山巌夫人と出会う場面である。

この場面の中で、捨松は成人した女優が演じていたが、使節団と一緒にアメリカに渡った時、捨松はまだ11歳だったはずだ。つまり子どもだったわけである。それに対して新島襄は、明治4年には28歳になっていた。だからもし二人が出会ったとしても、大人の青年とまだ思春期前の少女の出会いだったわけである。

それはともあれ、この場面の中で捨松は自分の名の由来を説明している。アメリカ留学子女の募集に応じた母親が、捨てたつもりで帰りを待つという思いでこの名をつけたので、本来はさきという名だったのですという。さきは、山川大蔵の妹で、父親はさきが生まれてすぐに死んでいる。幼い頃のさきは、この番組の中では登場していないから、この出会いの場面が初登場なわけである。

会津戦争があった明治元年には、さきはまだ7歳の少女だった。維新後困窮した山川大蔵はさきを函館の知人のもとに里子に出し、そこから更に外国人の幼女として養われていたのを、留学の話を聞いた大蔵と母が、さきを行かせることにしたのである。

大蔵は、さきの残した着物などを大事にしていたようで、東京へ出てきて閑居していた頃も保管していた。そこへ少年の柴五郎が下北半島からはるばる訪ねて来た。五郎の着ているものがあまりにみじめで、乞食小僧のようであったので、大蔵はさきの着物を出してこさせ、その袖を切ったりして体裁を整え、五郎に着せてやった。振袖は切ったものの、着物の柄は少女のものとて、隠しようがない。それでも五郎は文句を言わずにそれを着て、逞しく生きていった。

その折の様子は、「会津人柴五郎の遺書」の中で触れられている。







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