田原藤太龍宮入りの話:南方熊楠「十二支考」

| コメント(0)
十二支の一つ龍についての話を南方熊楠は、「田原藤太龍宮入りの話」と題した。題名からして他の干支の話とは大分趣が違うが、細かいところを抜きにして言うと、太平記に記すところのこの「田原藤太龍宮入り」の話の要点は、藤太こと藤原秀郷が大蛇に案内されて水中の龍宮に至ったこと、そこでムカデの化け物を退治したこと、そのお礼に様々な財宝を貰って帰って来たこと、その財宝の一つに、出せども尽きぬ俵があったことから、秀郷が俵藤太と呼ばれるにようになったこと、などである。

秀郷が俵藤太と呼ばれるようになったいきさつについては、かの馬琴翁は、「この人始め下野の田原てふ地に住み、藤原氏の太郎だった故、田原藤太といひしを、借字して俵藤太と書くやうになって、俵の字を解かんとて竜宮入りの譚を誰かが作り出した」と考えたが、熊楠もそれに賛意を評している。

こんな話を最初の手掛かりにして熊楠は、まず「龍とは何者か」についての考察から始める。

龍は日本のみならず、支那やインドにもある。とりわけ仏典には仏の眷属として必ず諸々の竜王が出て来る。そこで竜とはアジアの一部で行われた想像上の動物だという説が有力になったことがあった。この説によれば、ヨーロッパの龍は、この中国の龍がモンゴル、ロシア経由で伝わったということになる。しかし熊楠はそれを誤解だという。北米のインディアンやメキシコの原住民にも古くから龍が存在したことから、それがわかる。良くよく調べれば、龍と言うものは東西南北世界中に認められるというわけである。

そこで東西の龍を比較すると、面白いことがわかる。東洋の龍は人間に対して好いことをするというイメージが強いのに対して、西洋の龍は悪事を働く場合が多い。例えば、中国では龍は王者のシンボルとされてきた。それに対してキリスト教圏では、ヨハネの黙示録に出てくる七頭の龍が天使によって退治されるという話があるとおり、龍はまさに悪のシンボルである。

その龍の姿を、東西どのようにイメージしてきたか。中国や日本では、龍は大蛇に足が生えた姿でイメージされることが多い。西洋では龍は足の外に翼をもつ場合が多い。もっとも支那でも、漢の時代までは龍は有翼だったと熊楠は言う。「山海経」に「泰華山蛇あり肥遺と名づく、六足四翼あり」とされる山蛇が中国の龍の祖先だというのである。それが無翼になったのは仏典の影響かもしれぬ。

東西どちらの場合も、トカゲなどの爬虫類がモデルになっているフシがある。太古の人にとってトカゲと蛇とはごく近縁関係にあった。そこで蛇を崇拝ないし忌避する気持ちがトカゲなどの爬虫類に転移して龍となったのではないか、と言うわけである。

日本の場合には、「龍=たつ」は竜巻のイメージとも結びついている。大蛇が竜巻のように舞い上がっていくイメージである。「たつ」は「立つ」と結びついているわけである。「立つ」のだから、「飛ぶ」わけではない。したがって翼もいらないというわけであろう。

これに対してヨーロッパのドラゴンはギリシャ語の「ドラコン」、ラテン語の「ドラコ」より発しているが、それらはギリシャ語の「ドラコマイ=視る」を語源とするという。龍の目の鋭さに着眼したものである。目の鋭さが「イーブルアイ(邪視)」のイメージにつながり、そこから龍は邪悪なものという考えが強まったのであろう。

さて俵藤太の話に出てくる龍宮とは何か。熊楠はこれを二義的に捉えている。そのひとつは龍宮を蜃気楼とするとらえ方である。蜃とは大きな蛇の一種だとも、蛤の大きなものだともいう。どちらにしても、蛇や蛤の吐き出した気が絵を描いたもの、言い換えれば蛇や蛤の夢が形となったもの、それが蜃気楼ということになる。しかし、藤太が入っていった龍宮は水中にあった。そこで熊楠は、藤太が出会った龍とは水蛇のことで、その蛇が住んでいるという龍宮は水中、すなわち琵琶湖の底にあったと考えた。

水底は陸上のものが最後に流れ着く場所である。そこで水中には陸上の宝物が埋もれているに違いない、そんな想像が水中の宝物殿たる龍宮のイメージを生んだのではないか、熊楠はそう考えるわけである。

さてこれまでは、龍を蛇の延長で捉えてきたが、鮫類もまた龍蛇とかたちが似ているとした。日本の神話にはワニが出てくるが、これまで日本人はこれを素直に爬虫類のワニであると信じてきた。しかしよくよく考えてみるとそうではない、むしろ鮫と考えたほうが納得がいく。たとえばワニの別名を「左比持神」ともいうが、それは鮫の一種の「シュモクザメ」と考えられる。

また、「俵藤太の話」では、龍がムカデに負けて人に救いを求めるということになっているが、同じような話は「今昔物語集」にもある。その今昔物語集の話と言うのが、シナやインドの話とつながっているから、これは日本だけの話ではなくて、世界的な広がりを感じさせるものだ。

最後に熊楠は、秀郷に退治されたムカデについて、その正体を推測する。その結果蜈蚣鯨だろうと結論付ける。蜈蚣鯨とはゴカイのことだ。その姿が、陸に打ち上げられた鯨の死体に似ているところからそう名付けられたに違いないと考えるわけである。

このように、あちこちと考察をめぐらした挙句、熊楠は次のような言葉で一篇を結ぶ。「これを要するに秀郷龍宮入りの譚は漫然無中有を出した丸虚談ではなく、事ごとにその出所根拠がある」のだと。

ところで熊楠と言えば、話の途中に脱線して猥談に及んだり、酔論に及んだりということが多いのであるが、この小文においてもその一端が伺われる。というのも、蛇といえばヤマタノオロチ、そのオロチといえば自ずから大酒飲みが思い浮かばれる。そこで熊楠は次のようにいうのだ。

「拙者本来八岐大蛇の転生(うまれかはり)で、とかく四、五升呑まぬと好い考へが付かぬが、妻がかれこれ言ふから珍しく禁酒中で、どうせ満足な起源論はなるまい」

酒が思うように飲めぬのは確かに残念なことだ。熊楠先生ならぬ筆者のような愚翁でも、それはわかる。


関連サイト:南方熊楠の世界






コメントする

アーカイブ