福沢諭吉と明治維新

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福沢諭吉は明治維新の激流に自ら飛び込んで主体的に活動するということをしなかった。終始傍観者として過ごしたといってよい。幕府に仕官することはあっても、政治を云々することは一切慎み、かたわら洋学塾を経営して、塾生たちに洋学を教授することに専念した。熟を経営した人間のたちの中には、吉田松陰のように塾生を煽動して、極めて政治的な活動をした者がいなかったわけでもなかったが、福沢は自分自身が政治に膾炙することを慎むのは無論、塾生たちにも政治を云々することを望まなかった。

それには、当時の政治状況に対する福沢の覚めた見方が働いていた。洋学の徒である福沢には、尊王攘夷を叫ぶ西南諸藩の連中が野蛮にうつった。彼らは攘夷に熱中するあまり、日本の国の運命を危うくしている。幕府は幕府で、表では開国を唱えながらその実、攘夷の本音は薩長に負けない。なんのことはない、尊王攘夷と云い、佐幕開国と云い、どちらも西洋を排斥することにおいては五十歩百歩だった。そんな連中とまともに付き合ってはいられない。だから自分は政治とは一線を画すのだ、という心構えがあった。

その辺の心構えを福沢は、福翁自伝のなかで次のように書いている。

第一、 私は幕府の門閥圧制鎖国主義が極々嫌いで、これに力を尽くす気はない
第二、 さればとて、かの勤王家という一類を見れば、幕府よりなお一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。
第三、 東西二派の理非曲直は暫くさておき、男子が所謂宿昔星雲の志を達するは乱世にあり、勤王でも佐幕でも、試みに当たって砕けるというが書生のことであるが、私にはその性質習慣がない。

これらのうち第三のものは、自分の身に着いた性質習慣について言及したものであるが、福沢の政治嫌いは子供の頃からの経験に深く根ざしたものだった。

下級武士の家に生まれた福沢は、子供の頃から露骨な身分差別を受けた。上士の子はどんなに不出来であろうとも高い身分を相続し、福沢のような下士や町民に対して威張りかえっている。福沢はそれを封建門閥制度のもっとも下劣なところだとして、これを激しく憎んだ。その余りに、封建門閥制度を本質とする政治向きのことも軽蔑した。政治というものは、福沢にとってとりあえず藩政を意味していたわけで、政治を云々するには藩の中で一定の役職につかねばならない。そのためには上士にへつらって格式をあげてもらったり、俸禄を増して貰わねばならない。福沢には、そんなことは到底できなかった。

福沢はいう。「藩に仕えて藩政を如何しようとも思わず、立身出世して威張ろうとも思わず、世間でいう功名心は腹の底から洗ったように何にもなかった」

こんなわけで福沢は、政治には距離を置いて、自分の志すところ(つまり洋学)に従い、自分が納得できることだけをしようという姿勢を身に着けたのである。そんな姿勢に立って世の中を見ると、先程の三か条にもあるとおり、政治を云々しているのは馬鹿な輩ばかりだ。そんな輩と付き合っていては、自分までが馬鹿になってしまう。そんなふうに福沢が感じたのも無理はないわけである。

福沢が学んだ適塾には、長州や薩摩の侍も多く学んでいたから、福沢は彼らを通じて政治好きになる機会はいくらでもあった。それでも、福沢は政治を云々することはしなかった。政治を云々するような連中とは一線を画して近づかなかったのである。その良い例として、村田蔵六(大村益次郎)との関わりがあげられる。

師緒方洪庵の通夜で村田と同席した福沢は、長州藩が外国艦隊に向かって大砲を撃ったという事件に触れて、「何をするのか気違いどもが、あきれ返った話じゃないか・・・この世の中に攘夷なんてまるで気違いの沙汰じゃないか」というと、村田は怒り心頭に達したという顔つきで、福沢を罵り、「防長の士民は悉く死に尽くしても許しはせぬ、どこまでもやるのだ」と応えた。その権幕に接した福沢は、村田は気が狂ったに違いないと決めつけて、以後一切近づかないようにした。村田は、明治二年に、長州藩内の抗争のあおりを食らって、一部の藩士に襲撃され、それがもとで死ぬのであるが、福沢はそのことにも一切無関心だ。

村田の例に限らず、維新前後は極めて治安が悪く、政治活動に夢中になっている連中が互いに殺し合ったほかに、福沢のような洋学者も暗殺の脅威にさらされていた。福沢はその恐怖についても、福翁自伝のなかで語っている。

福沢は明治初年に三田に塾を移し、その敷地の一角に住まいのための建物を普請したが、その際、床を尋常より高くし、押入の所に揚板を作らせた。刺客に襲われた際に、其の揚板を持ち上げて床下に逃げる算段だったのである。ことほどかように、福沢は暗殺の脅威を日常的に感じていたと書いている。

その福沢が実際に殺されかかったことがある。それは、他藩の攘夷家ではなく、中津藩の、しかも日頃親しくしていた者の手になったものであった。明治三年に福沢は、母親と姪を東京に迎えようとして中津に行き、そのついでに藩士たちを相手に、目下の国際情勢などについて講義をしたが、その折に、福沢は開国を唱道してけしからぬとする攘夷派の藩士が、暗殺の手を伸ばしたのである。福沢は辛くもこの危機を乗り切ったわけだが、それにしても、暗殺の脅威は、常に身の回りに感じないではいられなかった。

いよいよ王政維新が定まると、明治新政府から出仕せよと声がかかる。しかし福沢は病気を理由に一切いうことを聞かなかった。福沢には、明治新政府の連中は分からず屋の野蛮人ばかりで、そんな連中と付き合うのはまっぴらだという気持が強かったのである。「コンナ古臭い攘夷政府を作って馬鹿なことを働いている諸藩の分からず屋は、国を亡ぼし兼ねぬ奴らじゃと思って、身は政府に近づかずに、ただ日本にいて何か勉めてみようと安心決定した」わけである。

このように政治から一線を画しつづけ、明治維新の意義についても否定だった福沢だが、明治新政府が攘夷を捨てて開国につき、日本の近代化に本格的に取り組むようになると、福沢の明治維新を見る目も違ってくる。そして「政府の開国論が次第しだいに真正のものになってきて、一切万事改進ならざるはなし、所謂文明駸々乎として進歩する世の中になったこそ有難い幸せで、実に不思議なことで、いわば私の大願も成就したようなものだから、もはや一点の不平いわれない」と断言するに至る。

なかでも福沢が評価したのは、曲がりなりにも西洋流の民主主義というものが導入されて、国民が自由にものをいえるようになったことだ。無論維新政府は自由民権運動を弾圧したり、民主主義が速やかに伝わるようになったとは到底いえないが、福沢が自伝を書いた明治三十年代にもなると、言論が災いしてひどい目にあうというようなことも少なくなった。「今日安全に寿命を永くしているのは明治政府の法律の賜物と喜んでいます」というわけである。

もう一つは、国力が充実して諸外国から侮られることが少なくなり、ついには隣の支那との戦争にも勝つようになった。福沢も人並みの愛国心は持っているわけで、この戦争に勝ったことを心から喜ぶのである。

それでもやはり福沢は、明治政府に仕えることはしなかった。そのことで新政府側からは、さんざん批判されたりもしたが、福沢は決して節を曲げなかった。反面旧幕臣の人々と付き合ったことはよく知られている。明治6年には明六社の創立に加わっているが、これに参加した人々はほとんどが、旧幕臣の出身であった。彼らの多くは維新政府に仕えてはいたが、薩長藩閥勢力とは距離をおいた人々であった。それなりに反骨精神に富んだ人々の集まりだったわけである。福沢もまた、その反骨精神を共有していたということだろう。


関連サイト:日本史覚書 








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