南方熊楠の文章:中沢新一の熊楠論

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南方熊楠の文章は、読んでいて実に面白い。彼の文章は、書かれている内容も豊かで面白いが、内容を表現するスタイルが独特で、読ませるのだ。文学ならぬ科学を語る者にして、文章のスタイルを感じさせる者はそう多くはない。熊楠はその少数の例外であるばかりか、型破りの文章を紡ぎ出した稀有の例なのだ。

その熊楠の文章の特徴について、熊楠研究家の中沢新一が手際よくまとめている(動と不動のコスモロジー解題)。それを手掛かりにして、熊楠の文章について語ろうと思う。

まず、熊楠の論文には殆どの場合結論めいたものがない。沢山の謎が次から次へと提出され、それに関してさまざまなことが言われているかと思うと、結論めいたものがないままに、いきなり終わってしまうというケースが多い。論理的な文章の条件とされる起承転結の形式をとっていないのだ。これを中沢は、音楽に例えると、ソナタ形式ではなくセリー構造に似ていると言った。ソナタが立体的・構成的なのに対して、セリーは平面的・連続的で情動の流れを想起させるという意味合いだろう。

次に、熊楠の文章は、ある特定の問題についてとことん追求するというのではなく、複数の話題を同時並行的に展開していく傾向が強い。ある一つの話題について語っているところへ、ふとしたことがきっかけになって、別の話題に移り、さらにまたそこから第三、第四の話題へと変幻自在に移っていく。その挙句に当初の話題に戻ってくることもあるが、戻ってこないこともある。あることについて語り始めたはずなのに、いつの間にかそれ消し飛んでしまうのである。熊楠の文章が取り留めなく締りがないといわれるのには、こうした事情が働いている。

熊楠のこうした傾向について中沢は、「話題がしょっちゅうジャンプしている」と表現している。熊楠の関心は決して単層的、単一的ではなく、いつも複数の話題の間を自由自在に飛び移っていく。それは無秩序にだらしなく行われるというよりも、必然的にそうせざるを得ないといった具合になされる。熊楠においては、単線的な論理の流れよりも、複線的な話題の転回が肝要なのだ。

このことは筆者も、熊楠を始めて読んだときから感じさせられた。とにかく、話題の展開に飛躍が多いことは確かだ。その飛躍の一例として中沢は、「履歴書」の一部分を紹介しているが、そこでは始め植物学の話をしていたものが、いつの間にか自分の住んでいる熊野の話になり、それが南洋の未開社会と同じようだという自慢になり、今度は急に思い出したように、けしからぬ隣人の話になり、散々愚痴をこぼしたかと思うと、シベリアのシャーマンの間に伝承される女人病の話に移り、再び隣人の悪口を挿んで、日本にいつ梅毒が伝わったかと言う話題に発展していく、といった具合である。

次に、卑猥な話の多いことである。これは熊楠の文章を読んだ人が最初に気づく特徴で、熊楠の文章にはとにかく猥談が多い。しかもその猥談が、しょっちゅうジャンプする話題の中で、もっとも光彩を放つ話題なのである。それを筆者は、当シリーズの「南方猥談」のなかでも取り上げたが、そこでも言っているように、熊楠はいかなる論理上の繋がりのないところに突然猥談を持ちだし、読者を煙に巻いてしまうのである。

猥談を交えて話題をジャンプさせていく南方の文体を、「バフチンならば、これを熊楠の文体のもつカーニバル性というだろう」と中沢はいっているが、そこでいうカーニバル性とは、卑猥なものへの愛好という意味合いと共に、文章の複層性といった意味合いを込めているのだろうと思う。その複層性を中沢はヘテロジニアスと言い換えているが、これをバフチン自身の言葉に従って、ポリフォニーと言い換えても良い。そうした複層性は熊楠特有のもので、それが柳田国男には理解できなかった。柳田は、熊楠の論理が直線的ではなく脱線がちで、しかも卑猥な話題が多すぎると批判したのであったが、その柳田がもっとも心がけたことといえば、モノトニアスな論理展開と、禁欲的な姿勢だったのである。

中沢はまた、熊楠の文体におけるフラクタル構造にも言及している。これは熊楠の頭の中に存在するリゾーム構造と関連していると中沢は言う。熊楠の頭の中には、様々な話題がリゾームのようにつながりあって展開しており、それを一つづつ腑分けしていくと、無限に展開するような具合になる。そこに文体のフラクタル構造が成立する根拠がある。熊楠にとって文章を書くという営みは、自分の頭の中にあるリゾームにフォルムを与えるということなのである。

そのリゾームを、中沢はマンダラ、それも熊楠が構想したあの独自のマンダラと関連付けている。リゾームもマンダラも、部分が全体とそっくりそのままつながりあっている。したがってどこから入っても、全体の動きにつながることが出来る。しかもそこで展開しているのは因果律の世界ではなく、複雑な縁の世界である。縁と縁とが結ばれあい、もつれあって、起承転結では説明できないような、独特の世界を現出する。それを表現しようとしたら、熊楠のような文章にならざるを得ない。熊楠の文章は、単純な因果関係を表現するのではなく、複雑な縁の体系を表現するのにふさわしいかたちなのだ。

最期に中沢は、熊楠にとっては、「何を語るかではない、どう語るかが、重要なのだ」といって、熊楠の文体の持つ特別の意義について再確認している。語り方にこだわるところが、熊楠が並みの科学者ではなかったことの証しなのかも知れない。


関連サイト:南方熊楠の世界 






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