夜の女たち:溝口健二の世界

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溝口健二の映画「夜の女たち」は、パンパンの生態に焦点を当てた作品である。パンパンというのは、戦後に出現した新しいタイプの売春婦であり、街頭で米兵を相手に商売するものを差していったのが始まりだが、そのうち、街娼全体をさしてパンパンと言うようにもなった。溝口健二がこの作品で描いたのは、そうしたパンパンのうちでも日本人相手の街娼である。

戦後の日本に街娼が大量に出現した背景には、夫を戦争で失ったりした結果生活困窮に陥った女性たちが、やむを得ない選択として、自分の身を売ったという現実があった。この映画の主人公の女性(田中絹代)も、夫を戦争で失い、ただ一人の子どもも病気で亡くして自暴自棄に陥り、パンパンの境遇に落ちていったということになっている。田中絹代の周辺には大勢のパンパンが登場するが、彼女たちもやはり、そんな境遇なのだろうと感じさせられる。彼女たちは、戦争の最大の犠牲者なのだ。

溝口健二という映画作家は、首尾一貫して女性の生き方を描いた。彼の描く女性たちは、家族の犠牲になったり、男の食い物にされたり、あるいは身を擲って男のために尽くしたても何ら報われるところがなかったりと、とにかく一方的に虐げられている立場の女性たちだった。しかし彼女らは、貧困や社会的な差別のために虐げられて、悲惨な境遇を生きるうちにも、人間としての誇りは失わなかった。彼女らには女としての意地があり、その意地を通して生きている限り、人生には意味があるはずだった。

この映画に出てくる女性たちは、ちょっと違った次元にいることを感じさせる。彼女たちパンパンには、人生が意味のあるようには見えないのだ。自分の人生であって、自分の人生ではない、自分が生きているのは、自分の一部を売ることによってだ。つまり自分はただの商品なのであり、他人から人間として扱われず、自分自身でも人間らしく感じることもない。ただただ獣のように生きているだけなのだ。若し彼女らに生きることの意味があるとすれば、それは社会に対する怨念だけだ。だから主人公の田中絹代も、「男という男に病気を移して復讐してやるんや」と口癖のように言う。彼女にとっては、社会に復讐することだけが生きる意味なのだ。

映画は、戦場から戻らぬ夫を待つ田中絹代が、着物を古着屋に売りに来るところから始まる。古着屋の婆さんは、もっと楽に金を得る方法があると絹代に持ちかける。それが売春であることを知った絹代は激しく拒絶する。いくら苦しくても、買春だけはできない。そんなことをしたら、夫へ顔向けできない。

しかし生活は苦しい。目下は夫の実家の世話になっているが、夫の弟から嫌味を言われて居心地は良くない。そのうち、夫と戦場で一緒だったという男と連絡がとれ、夫の死を聞かされる。悲しむ間もなく次には子どもが病気で死んでしまう。一人身になった絹代は、とりあえず夫のゆかりの人の世話になることにする。事実上のめかけだ。男の用意したアパートに住み、昼は男の秘書として働き、ときたま男を部屋に迎えるというわけだ。

そこへ妹(高杉早苗)が現れる。妹は外地から命からがら帰って来たのだが、実家に戻ると家は焼けてなく、両親も死んでいたと伝える。こうして、姉妹揃ってアパート暮らしを始めるのだが、旦那の男が妹の方に手を出す。それを知った絹代は、妹を激しく責める。妹は、姉さんが何もないといったから身をゆだねたと弁解する。知っていたらそんなことはしなかった、というのである。自分の体は、引き上げの途中にバラバラにされたから、いまさら惜しいとも思わないが、姉さんから男をとるつもりはなかった、ともいう。

自暴自棄になった絹代はアパートを飛び出し、ついにパンパンの境遇に落ちていく。路上に立って、男に声をかけ、兄さん一緒に遊ばへんか、と持ちかける。すげなく拒否されると、言葉を限りに男を罵る。その場面が凄惨を極める。

夫には妹が一人いるが、この妹が多少頭の足りないところがあって、家出をしたところをヤクザ者のカモにされ、金を巻き上げられたあげくに、不良女たちから身ぐるみはがされてしまう。この女は、力ずくでパンパンの世界に引きずり込まれてしまうのである。ここでも、女を食い物にするあくどい男と、邪悪な女たちの暴力とが、赤裸々に描かれている。

姉に対してやましさを感じた妹(高杉)は、姉を探して方々歩き回るうちに、パンパンたちのたまり場所になっているところに通りがかる。すると運悪く取り込みの最中で、大勢のパンパンたちと一緒にあげられてしまう。連れて行かれた先は、パンパン用の収容所だ。ここで梅毒検査をし、陽性なら治療を行い、陰性なら因果を含められて娑婆に戻っていくというわけだ。

この収容所で、姉妹は思いがけない再会をする。思いがけないついでに、妹は梅毒にかかっており、しかも妊娠しているということが明らかになる。出所した妹がそのことを男に告げると、男はすぐに堕胎しろとせまる。そうこうするうち、警察がやってくる。男がやっている麻薬の売買の証拠が挙がったというのだ。

一方、絹代のほうは自力で収容所を脱出し、パンパン稼業に戻る。しかし妹のことが気になって仕方がない。そんなところに、パンパンを対象にした社会復帰施設のあることを知り、そこで妹に出産をさせようと連れていく。ところが、妹の出産は死産に終わる。そのシーンが印象的だ。死んだ子を取り上げたものが、「生まれてこなんだほうが良かったかもしれん」と、妙な理屈で母親を慰めるのだ。

こうして絹代はパンパン稼業を更に続けることになるが、そこへ思いかけず、夫の妹が現れる。この少女もパンパンに落ちぶれていたのだが、他のパンパンたちから、挨拶がないといってリンチされかかったところを、絹代が救うのだ。ただ救うだけではない、パンパンの境遇から少女を立ち直らせようとするのだ。リンチされて恐怖に駆られている少女を抱きしめながら、もうこんなことはやめようと決心する。すると他のパンパンたちが、ただではすまぬと力む。御馳走を食わせてやるというのだ。そこで絹代は、食わせてもらいましょうと開き直り、自分から進んでリンチを受ける。その場面がえげつないほどに凄惨だ。

絹代が無残にリンチされているのを遠目に見ていた他のパンパンたちが、絹代に同情してリンチを止めに入る。そしてその隙に早く逃げろと絹代らに呼びかける。はじめから終わりまでやるせないほどに凄惨な映画のなかで、唯一人間らしさを垣間見ることのできるシーンだ。

こんなわけで、この映画は、パンパンたちの凄惨極まる生きざまを描きだしたものだ。そこには救いもないし、人間らしさを感じさせるシーンも、ただ一つを除いては全く出てこない。その一つというのが、ほかならぬパンパンたちの心の中に残っていた人間らしい感情なのであり、彼女らを取り囲む外の世界には、人間らしさを感じさせるものはない。

こうしてみると、この映画は、社会全体によって食い物にされている女がテーマだといえる。この映画以前に溝口が描いてきた女たちは、男の食い物にされたり、家族の犠牲になったりしていたわけだが、この映画に出てくる女たちは、社会そのものから捨てられてしまっているわけである。


関連サイト:溝口健二の世界 







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