海老坂武の「加藤周一論」を読む

| コメント(0)
加藤周一は、知の巨人とか巨匠とかいう言葉が相応しい最後の日本の知識人ということになっているようだが、筆者は迂闊なことに、これまでまともな読み方をしてこなかった。精々エッセーの類を断片的に読んだ程度だ。もうこの年になっては、一から読むというわけにもいかないが、さりとてこのまま通り過ぎてしまうというのも気が引ける。というわけで、まずは彼の業績の概要を一瞥するつもりで、海老坂武の加藤周一論「加藤周一~二十世紀を問う」(岩波新書)を読んでみた。

加藤周一をずっと追いかけて来たというだけあって、なかなか行き届いている。簡単な伝記にもなっているし、加藤の業績の概要がコンパクトにまとめられている。その業績とは手短にいえば、日本文化の全体像を解き明かしたということのようだ。加藤の主著として挙げられるのは、「日本文学史序説」、「日本その心とかたち」、「日本文化における時間と空間」の三つだが、これらはそれぞれ、文学、美術、精神史の領域から、日本文化の本質にせまったものだというのが、著者の加藤についての基本的な了解だ。

ではその日本文化の本質とは何なのか。それは雑種性だと著者はいう。無論加藤自身のいっていることを踏まえてのことである。雑種性というと、本質とは形容矛盾の関係にあるように思われがちだが、実はそうではない。日本という国は、大昔から外国の文化を貪欲に取り入れながらも、それに呑み込まれるのではなく、それをいわば日本化することで、独自の文化を作り上げてきた。だからそれは、たんなる模倣では無論ないし、かといって狭い国粋主義でも無論ない。外に対して開かれていながら、あくまでも自分の主体性を失わない、そんな弾力性をもった文化なのだ、ということらしい。らしいというのは、筆者はまだ自分自身で加藤の思想を裁断できるほどの材料をもたず、したがってとりあえずは、著者の言い分を丸呑みしなければならぬ立場にいるからだ。

そんな著者の筆運びのうちで、ひとつ面白いと思ったのは、日本の精神史の特徴を、丸山真男とかかわらせながら論じている部分だ。周知のように丸山は、日本人の歴史意識の特徴を、「次々となりゆくいきほひ」という言葉に表されるような、なかば盲目的な成り行き主義と、その裏返しとしての現在中心主義に求めたわけだが、加藤はこれに空間把握の意識を付け加えて、日本人は「いま」にこだわるとともに、「ここ」に、つまり自分が生きている狭い空間に固着する傾向が強いというようなことをいう。

丸山が日本人の歴史意識の問題点を取り上げたのは、いうまでもなく、戦前・戦中のあの軍国主義への深い反省が働いたからだった。日本人は何故、あんな馬鹿げたことに国を挙げてうつつをぬかし、その挙句に自分から進んで没落していったのか。それは日本人のなかに潜んでいる特異な歴史意識に遠い原因があるのではないか。そういう問題意識が丸山にはあったのだと思うのだが、加藤にもやはり、同じような問題意識があった。加藤は戦後になって丸山以上に過激な言辞を用いて、戦前・戦中の日本の思想状況へ痛烈な罵倒を浴びせたのであったが、それは、日本的なものへの強い反省に裏付けられたことであったわけである。そういう反省があったからこそ、「軍国の支配階級の犬ども」に対する仮借のない戦いを始めたともいえる。

加藤が日本文化の特質について考えるようになったのは、ひとつには上述したような過去への反省からだったが、ほかにもう一つ大きなきっかけがあった。それは海外体験である。加藤は戦後間もなく国の医学振興のプログラムに乗ってヨーロッパに留学したが、その時の体験が、自ずから日本文化をヨーロッパ文化と比較する態度を培った。

加藤はフランスやイタリアの文化に圧倒されたのであったが、これらの国の文化の特質を手短に言えば、中世から現代までが連続していること、文化とは形であって、形は精神を外在化させたものだということ、そしてこれらの国々では芸術が知的な世界の全体に組み込まれていること、以上三点だった。翻って日本はどうか。こんな問題意識が、加藤の日本文化を見る目を鋭くしたのであろう。

加藤の研究の中で大きな比重をもつものとして、中世の宗教運動がある。親鸞、法然、道元、日蓮らによる宗教改革は、日本人の精神生活にとって巨大なインパクトをもたらしたわけだが、それらが日本文化の中に、どのような痕跡を残し、また今現在どのようなインパクトを与え続けているのか、それについて歴史的に考察しようというのが、加藤のひとつの問題意識となっている。

さて、筆者にとってひとつ意外なことがわかった。加藤の荷風びいきである。加藤は他でもない一九六〇年安保騒動の中で、他の評論家がこぞって政治を論じていた時に、雑誌「世界」に数回にわたって荷風論を寄稿したというのだ。それがどんな内容だったのか、著者は触れていないがそれは、内容はともかく、政治好きのはずの加藤がもっとも政治的な季節に政治を論じず、政治とは縁の遠い荷風を論じた、というところに著者自身が驚いたからだろう。

ともあれ、この本を一読すれば、加藤周一という人間の、人間臭い一面がよくわかろうというものだ。


関連サイト:日本語と日本文化 






コメントする

アーカイブ