脱原発から原発推進へ

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深い宗教的思索で知られるキルケゴールは、内在的理性から超越的宗教への飛躍を論じたあの「哲学的断片」という著作の中で次のように述べている。「人は自分の命を人質にすることはできるが、他人の命は人質にはできない」と。

こんなことをもちだすのは他でもない。今の社会では、他人の命を人質にして憚らない風潮があるからだ。原発の将来をめぐる話である。あの福島の事故以来、原発の恐ろしさを体験した日本人の大半は、出来れば原発のない社会が望ましいし、原発を一気になくせないのならば、段階的に減らしていくことが必要ではないかと思ったのではなかったか。ところがそうした声は今ではかき消され、原発再開どころか原発推進まで声高に話されるようになった。そんな話をしているのは、一部の政治と、彼らに勇気づけられた原発村の住人たちである。彼らは、福島の事故などまるで起こらなかったかのように、原発の再開にまい進しているが、その姿をみていると、他人の命を人質にとって、自分の利益を図ろうとしているように映る。

政治家の中には、元総理大臣の小泉さんのように、原発を推進するのは無責任な態度だと批判する人もいるが、そういう声は少数派で、とかく原爆推進の大合唱の前ではかき消されがちだ。

原発村の住人達が原発再開と一層の推進にこだわるのは何となくわかるような気がするが、自民党の一部の政治家がそのことにこだわるのはどういうわけか。筆者などは、彼らの行動を見ていると、将来の日本の核武装の可能性を見据えて、原発立国として止まりたい、と思っているのではないかと、勘繰りたくもなる。実際一部の政治家の中には、これまでの日本の原子力政策には、単にエネルギーの安定供給だけでなく、核の潜在的な抑止力を認めていた人もいる。そういう人たちにとっては、原発をいっさいやめて丸裸になることは、安全保障上好ましくないと考えているのかもしれない。

だがそれにしたって、今のように原発を50基も持っている必要はないだろう。原子爆弾を作る技術を温存して置くためになら、数基の原子炉があれば十分だ。ところがそんなことは国際関係上おくびにも出せないので、なんとかエネルギー政策にかこつけて原発推進を進めて置こうということなのかもしれない。

だが、小泉さんが言うまでもなく、原発というものは人間の生存条件を破壊する可能性をもっているわけで、その生存条件が一旦破壊されたら、回復するには10万年単位の時間がかかる。

そんなことは、超越的宗教の立場に立たなくとも、内在的理性を以てして十分に理解できるはずだ。それをのんべんだらりんと原発を作り続けることは、他人の命を人質にして、目の前の利益を図ろうとする、けちな根性に見える。そういう人たちは、自分の命だけは、人質にはとられないと、頭から思い込んでいるのだろう。


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