赤線地帯:溝口健二の世界

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溝口健二の映画「赤線地帯」は、徳川時代には幕府公認の遊郭街として栄え、昭和に入っても日本最大の売春街(赤線)であった吉原の、最期の日々と、そこに生きる娼婦たちの過酷な運命を描いた作品である。家族の犠牲になったり、男の食い物にされたり、または社会に踏みつけにされながら健気に生きる女たちを描き続けてきた溝口にとっては、生涯の最後を飾るに相応しい作品となった。

この映画が公開された昭和31年に売春防止法が成立し、その2年後の昭和33年に全国の赤線地帯が廃止されるわけだが、この映画は、廃止の脅威にさらされる売春事業者たちの不安と、買春にしか生きる糧を見出せない哀れな女たちの運命を描く。

進藤栄太郎と沢村貞子が演じる夫婦者は、吉原で四代続くという老舗の売春宿を経営しているが、降ってわいた売春防止法制定の騒ぎに不安を感じないではいられない。300年にもわたって平穏に商売してきた人間たちに、いまさら商売をやめろというのはお上の無慈悲というものだ、といって警察官に愚痴をこぼしたりするが、世の中の動きに逆らうこともならず、鬱々とした日々を送っている。

彼らの売春宿には5人の売春婦がいる。彼らは彼女らを子どもと呼び、彼女らに自分たちを、お父さん、お母さんと呼ばせている。売春とはいっても、決してあこぎな商売ではなく、そこには親子の間の情愛に似たものさえあるのだ、というわけである。それ故にこそ、この主人は子どもたちに向かって、「お前たちのことを本当に考えているのは俺だけだ、俺は国家に代って社会事業をしているようなものだ」と、平気で厚顔無恥なことをいえるのである。

映画は、この5人の売春婦たち(よりえ、ハナエ、ゆめ子、ミッキー、やすみ)の運命を、一人ひとり念入りに描き出していく。

よりえ(町田博子)は五人の中でもっとも気の弱い女である。彼女には好きな男がいて、その男との結婚を唯一の楽しみにして生きている。そんな彼女を他の4人がけしかけて脱走させてやる。売春防止法が成立すれば借金は棒引きになると知った女たちが、この際だから逃げるが勝ちといって、彼女の逃走を助けるのである。そんな彼女を、4人の仲間たちが見送って餞別をやる。その場に居合わせたハナエの亭主は、あんなところは人間の屑のいるところだと、女房の前でシャアシャアという。この男は、女房をそんなところで働かせることで、かろうじて口をつないでいる哀れな男なのである。

そんな男でも、女房のハナエ(小暮実千代)は憎む気になれない。それに子どももいることだし、こんなに子どもが可愛くなっては、親子心中もできないといって、自分の運命を受容するのである。だが亭主の方は運命の過酷さに耐えきれずに、ついには首吊り自殺を図る。かろうじて亭主を救った女房は、わたしが体を売っているのは親子揃って生きていくためなのだから、死のうなどと思わないでという。そして、「子どものミルクも買えないで、何が文化国家だ。私は生きて余の末を見極めてやるんだ」と叫ぶのである。

結局、よりえは長からずして舞い戻ってくる。結婚して幸せになれると思ったのは大間違い。荷役の馬のように働かされてヘトヘトになるばかりだ。こんなことなら、元の方がよほどましだ、といって戻ってきたのであった。

ゆめ子(三益愛子)には一人息子がいて、死んだ亭主の実家に預けてある。彼女が売春をしているのは、この息子と義理の両親の生活費を送ってやるためなのだ。ところがその息子が成人して、東京に出てくる。いろいろいきさつがあった後で、母親は息子と会って話をする。できれば老後は息子の世話になりたい、そう思っているのだ。

しかし息子の方は、買春をしている母親が恥ずかしくて仕方がない。自分が故郷にいられなくなったのも、皆が母親の悪口を噂しているからだ。そういって、もう母子の縁を切る、と一方的に宣言する。その言葉に打ちのめされた母親は、ついに発狂してしまうのである。

五人の売春婦のなかで最も精彩を放っているのはミッキー(京マチ子)だ。豊満な体で画面狭しと動き回り、ニヒルに構えて世の中を冷笑している。彼女が売春婦になったのは、ブルジョアの父親に反発したためだった。極道者の父親は、母親を泣かせて遊びまわってばかりいた。そんな父親が許せなくなって、彼女は家を飛び出したのだった。

その父親が彼女を訪ねてくる。娘が売春婦に成り下がっては体裁が悪いから、引き取りに来たというのである。彼女は強く反発する。そして、わたしがこうなったのはパパを見習っているだけだ、どうや、極道のついでに私を買ったらいい、たった1500円で買えるわ、といって父親に抱きつこうとする。さすがの父親も、すごすごと引きさがらざるを得ないのである。

やすみ(若尾文子)は、五人の中では飛び抜けて計算高い女として描かれている。彼女が売春婦に身を落したのは破産した父親の借金を払うためだったが、いつまでも売春婦でいるつもりはない。仲間たちを相手に高利貸しのようなことをしながら小銭を貯める一方、出入りの男たちを騙して金を巻き上げる。そのあげく、騙されたことを知って逆上した男から殺されそうになるが、何とか生き延びて、倒産した蒲団屋を買収してそこの女将に収まる。その蒲団屋も元を言えば、彼女に熱を入れあげた挙句に散在して倒産したのだった。

この女をみていると、「浪速悲歌」や「祇園の姉妹」で出てきた逞しい女たちを思い出させる。山田五十鈴が演じたそれらの女たちは、男を手玉にとって金を儲けようとしてかえって食い物にされるばかりであったのだが、この映画に出てくる若尾文子演じる女は、ついに男を手玉にすることに成功したわけである。

ラストシーンが映し出される時点では、買春防止法はまだ成立していないが、風前の灯といった状態にあることには変わりがない。しかし、そういった状態でも新しい売春婦が誕生する。

しづ子という少女は親から借金のかたに売り飛ばされてきたのであるが、当初はまだ子どもだからと言って、客を取らされることはない。この少女はよほど貧しい家庭に育ったらしく、先輩の女たちから御馳走になった親子丼を、こんなにうまいものは生まれて初めてだといいながら、周囲に目を配りながら食う。その表情が、野良犬を見るようで、何ともいじらしさを感じさせる。

だが、若尾文子がいなくなって、その穴埋めに迫られた売春宿の主人は、ついにこの少女にも客をとらせることにする。沢村貞子が少女に白粉を塗って、可愛いべべも着せてやる。見違えるように綺麗になった少女は、先輩たちに交じっていよいよ客を引く段取りになる。そんな少女を先輩の京マチ子が心配してやって、いろいろと世話を焼く。少女は先輩たちの行動を見ながら自分もそれに倣おうとするが、如何にせん、羞恥心が先に立ってうまくいかない。客に声をかけようとして、体の方は柱の陰に引っ込めてしまうというありさまだ。

この少女にその後どんな運命が待ち構えているか。この映画はそこまでは言及しない。それは観客一人一人の想像力にお任せする、というつもりなのだろう。


関連サイト:溝口健二の世界 







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