廣松渉の高山岩男批判:「<近代の超克>論」から

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廣松渉は「近代の超克」論を目して、日本における上からのファシズムに下から呼応する動きとしたのであるが、日本ファシズムの二大要素たる全体主義的「国体」と対外戦争のうち、後者を見事に合理化したものとして、京都学派の学者高山岩男を取り上げている。

高山は昭和17年9月に刊行した「世界史の哲学」において、大東亜戦争の世界史的意義について考察し、日本がこの戦争を勝ち抜くことで、世界に新たな秩序を樹立することの意義と必然性を主張した。それを廣松は、当時の日本政府の立派なスポークスマンをつとめたと言って褒めているのだが、その褒め言葉がまた批判の言葉ともなっているといった、不思議な褒め方なのである。

高山の議論は、西田幾多郎の無の哲学やら和辻哲郎の風土論を持ち出してやたらと大袈裟にみえるが、実は単純なことを言っているに過ぎない、というふうに廣松は捉える。要するに西洋に対する東洋の優位と、その東洋の中で日本が指導的な地位を占めるべきだということである。そういう発想から大東亜共栄圏を合理化し、日本の対欧米戦争を、アジアを西洋の魔の手から守るための正義の戦争だと位置付ける。

こういう議論は、今日靖国史観といわれているが、高山はそれを哲学的なイデオロギーの形で示した先駆者だったということになる。

この、一見して単純で粗雑な議論を何故廣松が重視するかといえば、それが右翼を鼓舞するだけにとどまらず、左翼にとっても躓きの石になったからだと廣松は言う。「われわれとしては、この際、『大東亜共栄圏』なるものを哲学的に理屈づけた京都学派の論理構成の諸契機が嘗ての左翼インテリにとって陥穽たりえた事情を分析する必要があるし、また、それが今日の自称"左翼"にとっても躓きの石になる可能性をもつことを併せて剔抉しておく必要がある」というのである。

文意がちょっとわかりづらいが、要するに(京都学派のように)特殊日本的なものを強調するやり方は、場合によっては左翼的思考をも捉えることがあるが、その場合でも、あまり建設的な結果にはつながらないといったことか。








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