弥生土器

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(弥生土器:奈良県田原本町出土)

弥生文化は紀元前200年前後から始まるが、それは稲作栽培の広範な導入を伴った。稲作の普及によって生産力は飛躍的に高まり、また、人々の生活様式をも変えていった。即ち稲作は労働集約的であることから、村落共同体の発展をうながし、また水田の水を管理するため、村落共同体は「環濠集落」という形をとった。水を導くための堀を巡らした集落のことである。

こうして弥生時代の日本人は、村落共同体の中で、その一員として生活するようになる。共同体は共同で様々な労働を行う一方、共同体の維持を目的とした様々な儀式・行事を行うようになる。弥生時代の土器や金属器の多くは、こうした儀式・行事に使うことを目的に作られたものである。

弥生土器には主に三つの形がある。煮炊きするための甕、保存するための壺、食べ物を盛るための高坏である。壺は米などの保存に使われ、高坏は行事や儀式に用いられたと考えられる。このほか、個人用の食器として鉢が使われた。

弥生土器は低温で焼かれ、縄文土器より硬い。縄文土器のような波状の開口部はなく、表面の凹凸は少なく、全体の形は縄文土器よりずっとスッキリしている。円みを帯びて、しかも薄くできているのは、轆轤の技術があったことを思わせる。

また装飾を省いたものが多く、装飾があっても縄文土器に比べればずっとシンプルである。その模様には、箆描文や彩文など、幾何学的で規則的な装飾がみられる。

この時代には朝鮮半島から大量の金属器が輸入されているが、その金属器のすっきりした印象を土器に反映させたとも考えられる。

弥生土器が登場した後、すぐに縄文土器がなくなったわけではない。弥生文化は西日本から始まって次第に東へと移動していくのであるが、東北や北海道では稲の栽培に適さないところが多く、したがって弥生文化が浸透しなかったところもある。そうした地域ではかなり後まで、縄文文化が残った。また、弥生文化が浸透したところでも、弥生土器と縄文土器が混交するケースも多かった。

縄文土器と弥生土器をごく単純に比較すると、縄文の動に対して弥生の静ということになろう。縄文土器は躍動的で迫力がある。それに対して弥生土器は静的でしかも抽象性が高い。この二つの対極的な性質のうちでは、弥生式のほうがその後の日本の美術的感性に及ぼした影響が大きいといえるのではないか。

上の図像は、奈良県の田原元町から出土した弥生土器の一群。装飾は極力抑えられ、形はシンプルでしかも均整がとれている。





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