キルケゴールにおけるイロニーと弁証法

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キルケゴールが自分の生涯をかけた研究の出発点としてイロニーを選んだことは興味深いことである。イロニーの概念自体は、キルケゴールの同時代の精神状況の中で一定の存在意義を主張していた。その意味では新しい概念ではない。それは主に理想主義的なロマン主義者たちが、退屈な現実を糾弾するにあたっての武器として用いられた。とりすました相手をからかってみたり、陳列棚に収まった真理の剥製からその実在性を剥ぎ取ったりするための方法、それがイロニー、つまり皮肉の機能なのであった。だからそれはある種のファッションといってもよかった。こうしたイロニーの概念にキルケゴールが付け加えたものは、それを単なるファッションにとどめず、現実批判のための根本的な方法に高めることであった。後にキルケゴール自身、その方法を意識的に実践することによって、実存としての自己を確立していく。したがって彼のイロニー研究は、彼の生涯の方向付けを定める機能を果たしたといえるわけである。

キルケゴールのイロニー研究にきっかけを与えたのはヘーゲルである。ヘーゲルはソクラテスを通じて弁証法を体得したのであったが、その弁証法を支えたのが、ほかならぬイロニーであった。イロニーと弁証法とはだから、切り離し得ない一対の概念なのである。弁証法とは相手の言説を、問いかけを通じて一旦否定することで、その意味するところを相対化させ、そのことを通じて第三の言説を導き出す方法であるが、この否定の作用がイロニーと呼ばれるものなのであった。すなわちイロニーとは、語源的には皮肉をさすが、実体としては否定の作用のことなのである。

このようにヘーゲルは、ソクラテスから否定性のヒントを貰って自分なりの弁証法を作り上げていったわけであるが、その過程で重大な逸脱があった、とキルケゴールは考えた。ソクラテスのイロニーは無限的かつ絶対的な否定であったのに、ヘーゲルはそれを換骨堕胎して別のものに作り変えてしまった。ヘーゲルにあってイロニーは、全面的な否定ではなく、肯定性の一つの契機になってしまったのである。その辺の事情についてキルケゴールは次のように書いている。

「ソクラテス的な<問うこと>はヘーゲルにおける否定的なものと隔たってはいてもあいまいでない類似を持っている。ただし、ヘーゲルによれば否定的なものは思惟そのもののなかの必然的な契機であり、<内部への>規定なのであるが、プラトンにおいては否定的なるものは直感化され、対象の外に、すなわち問うている個人のうちに置かれている・・・第一の方法はそこに充実があることを前提にしており、第二の方法はそこに空虚があることを前提にしている。また、第一の方法は思弁的方法であり、第二のそれはイロニー的方法である。さて、ソクラテスが特別のものとして活動したのは後者の方法においてである」(「イロニーの概念」白水社版著作集、飯島宗享、福島保夫共訳)

つまりソクラテスのイロニーは空虚を伴っていたのに、ヘーゲルのイロニーは充実の内に安らいでいるのである。これはソクラテスの解釈を間違った方向へと導くものだ。ソクラテスの思想を正しく理解し、同時代の精神的状況に対して正しい立場をとるためには、イロニーの概念をソクラテスの立っていた地盤の上に据え直す必要がある。

こんな問題意識の上に立って、キルケゴールはソクラテスのイロニー概念について、綿密な再解釈を施していくわけである。その結果キルケゴールのたどりついた結論は次のようなものであった。

「以上の叙述において明らかにされたのは、ソクラテスの既存のものに対する関係が完全に否定的であったということ、彼がイロニー的な満足においてすべての実体的な生の諸規定のうえに浮遊していたということであり、それと同時に明らかにされたのは、ソフィストたちが主張し、彼らの根拠の多様性のもとで確立して一つの既成のものにまで仕立てようと努めたその<肯定性>に対する関係においても、彼がこれまた否定的に対処し、イロニー的な自由においてそのうえに超然としている自分を意識してもいたということである。彼の立場全体が、それ故、無限の否定性ということにつきるのであって、その無限の否定性というのは、先行の展開との関係においてあらわれ、また後続の展開との関係においても否定的にあらわれるものなのである」(同上)

このように、イロニーを全面的な否定性に還元する立場は、ソクラテスのイロニー解釈としては行き過ぎかもしれない。何故ならソクラテスの意図したことは、イロニーを駆使することでギリシャ世界全体を否定しようとしたことではなく、ましてや、真理そのものを否定することでもなかったからだ。たしかにソクラテスは人々に問いかけを重ねることによって彼らの無知を気づかせたに違いないが、だからといって彼らから生きる意味を奪ったわけではなかった。ソクラテスの否定性はだから、なにかしら肯定的なものに達するための足掛かりとして考えられていた、というのが実際のところなのだろう。

ところがキルケゴールはそうは考えない。イロニーとはこの世界とそこに存在するとされる真理とについて、その正当性を全面的に否定するようなものなのだ。「イロニーの相の下に眺めるものは、あれこれの現象でなく、現存在の全体である・・・イロニーは、絶対的否定性として...本質的には実践的であって・・・イロニーにとっては事柄が問題なのではなくてイロニー自身が問題なのである」(同上)

何故キルケゴールはそのように考えたのか。そこに彼の思想の本質を伺い知る手がかりがある。

後述する部分で追々明らかにするつもりであるが、キルケゴールにとって真の問題は、ひとりの実存する人間として自分自身を生きることであった。自分自身を生きるとは、自分自身で自分の生き方を決定するような生き方である。他人(そこには教会も入る)から指示された生き方でもなく、市場で出回っている思想に導かれた生き方でもなく、自分自身で決定するような生き方である。そういう生き方にとっては、自分の生きている世界が躓きの石となる。多くの人々はこの石に躓いて、自分自身の自分自身による生き方ができない。それ故この石に躓かないためには、あらゆることがらを一旦は否定してかかる必要がある。その否定はヘーゲルの言うような肯定のための否定ではない。否定のための否定、無限でかつ絶対的な否定だ。そこまで否定してはじめて、真理の片鱗が見えてくる。そうキルケゴールは考えたのである。

「イロニーの概念」という書物は、キルケゴールが学位請求論文として書いたものである。この論文を書いている間、キルケゴールは自分自身の生き方について深刻な悩みを持っていた。そうした悩みがこの論文の中にも反映されているのはある意味で必然のことである。そうした悩みがあったからこそこの論文は、単なる学術的な論文にとどまらず、生きる意味を考えるものになったのであろう。


関連サイト:知の快楽 






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