絞首刑:日本の死刑執行

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「日本の絞首刑」と題する永田憲史、デヴィッド・T・ジョンソンの共同論文が雑誌「世界」の2014年2月号に掲載されているのを興味深く読んだ。死刑というのは刑務行政の究極的な姿を反映するものであり、したがって多岐にわたる問題を含んでいるが、また著者たちの問題意識も多岐にわたるものであるが、とりあえず筆者は、日本の死刑執行形式である絞首刑の、執行の仕方に関心を持った。この問題については、過去にもこのブログで取り上げたことがある。

日本では、「死刑を取り巻く秘密主義と沈黙は、『他の国では見られないほど極端になされている』」ので、著者らは日本の司法当局から、死刑についての情報の開示をなかなか得られなかった。ところが、1948年7月~1951年3月の間に日本の刑務所で死刑執行を受けた46人について、GHQ/SCAPが作成した記録を入手することができた。そこでその記録をもとに、この期間における日本の死刑執行について分析することができた、というのである。

著者らは、死刑執行を受けた者の年齢・国籍・階層等について触れた後で、絞首に要した時間に着目している。というのも、時間が短いということが、その執行方法が苦痛の少ないものであり、したがって人道上の要請(残虐ではないこと)にこたえる執行方法だとする主張の、おそらくただ一つの根拠となるからである。

この46人についての、落下から医師による死亡確認までに要した時間は平均で14分15秒であり、中央値は14分であった。これは、医師がどの段階で死亡確認をしたかなどの微妙な問題を含んでいるので悩ましいところがあるが、それでも、アメリカと比較すると、7倍以上の時間がかかっていることになる。これは、何を意味するのか。

アメリカにおいては、「憲法上の限界の範囲内での死をもたらす執行方法の可能性の限度」として、「死が苦痛なく、手間取ることなく、即座にもたらされなければならない」とされている。この場合の手間取ることのない時間とは、「二分以下」ということになっている。日本における上記の死刑執行は、この二分以内と比べても7倍の時間がかかっているわけである。

アメリカの場合には、死刑を執行する方法としての絞首刑を現在は採用していない。絞首刑から電気椅子、さらにはガス室、薬殺へと変遷してきているが、それは必要以上に苦痛を与えることなく殺害しようという意思に基づくものだったといえる。こうすることで、死刑の「文明化」を図ったというのである。

日本国憲法も、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と規定しているが(36条)、現行の死刑執行方法たる絞首刑が、これにあてはまらないかどうかについては、これまでほとんど議論されてこなかった。上述した秘密主義の壁があったからである。

筆者は死刑制度そのものには反対しない。むしろあった方がよいと考えている。だが、その死刑執行がいたずらに残虐である必要はないと考えている。その意味で、現行の絞首刑のあり方について、もっとオープンに議論した方がよいと思っている。なにしろ日本の死刑執行方法は、1873年に絞首刑に定められて以来変わっていないのだし、それが不必要に残虐でないかどうかについて、突っ込んだ議論がなされたこともないのだから。







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