羅生門:黒沢明の世界

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黒沢明の映画「羅生門」は、日本映画としては初めて三大国際映画祭のひとつ(ヴェネチア)でグランプリを取った作品である。この受賞がきっかけになって、黒沢のみならず日本映画そのものが国際社会に認められるようになり、以後、溝口健二(雨月物語など)、衣笠貞之助(地獄門)、稲垣浩(無法松の一生)らの作品が次々と受賞するようになった。戦後の日本映画の黄金期の到来を飾るに相応しい記念碑的な作品といってよい。

この映画のどこが、世界中の人々から評価されたのか、たしかなことはわからないが、筆者なりに忖度すれば、次のような事情なのではないか。

まず映像の美しさがあげられよう。舞台となった里山の風景が日本的な自然の美しさをたたえているのに加え、カメラワークが秀逸だ。とりわけ光線のとらえ方が優れており、光と影の交差するさまが、画面に何とも言えないリズム感をもたらしている。リズム感と言う点では音楽の使い方もすぐれている。ボレロを思わせるエクゾチックなメロディが、映像とよくマッチして、物語の進行をリズミカルに演出しているといった具合だ。

ストーリー展開も面白い。ミステリー映画の体裁をとりながら、ミステリーは最後まで解決されず、解決の醍醐味は観客のためにとっておく、そんな粋な計らいが見る者をうならせるといったところがある。日本の映画にしてはめずらしくスマートなストーリー展開だといえる。そこのところが世界的な評価につながったのではないか。

俳優たちの演技もすばらしい。三船敏郎演じる賊の多襄丸は七人の侍の菊千代を思わせるいでたちで、一人の人間でありながら、さまざまな性格を演じ分ける。その性格とは自分の視点から自分を見た側面であったり、また他人の目から見られた自分の側面であったりする。それは京マチ子演じる若妻も同じで、ある時はしおらしい顔つきを見せるかと思えば、ある時は大胆不敵な表情を見せたりもする。こうした多角的な人物像の表現が、独特の深みともいうべき効果をもたらしている。

こんな訳でこの映画は、今日見ても古さを感じさせないし、世界中の人々にとって鑑賞に堪えるのではないか。

この映画は、芥川龍之介の短編小説「藪の中」を下敷きにしている。芥川はそれを「今昔物語集」の一節から着想したのだが、筋書きを大きく書き換えた。原作(今昔物語集巻二九第二十三「妻ヲ具シテ丹波国ニ行ク男、大江山ニ於テ縛ラルル語」)では、山中賊に襲われた男が自分の目の前で妻を犯されるのだが、山賊が去った後、妻が夫に向かって、私がこんな目にあったのはあなたがだらしなかったせいだと罵ることになっている。それを芥川は、男が殺されたことに変えたうえで、いったい誰がどのようにこの男を殺したかについて、検非違使の役人が数人の容疑者に尋問しながら追求するという形にした。小説は、それら容疑者や証人の供述を並べたという体裁を取っているのである。

芥川の原作では、主な証言者として、賊の多襄丸、妻、そして殺された夫の声を霊媒する巫女が現れる。彼らの証言にはそれぞれ食い違っているところがある。その違いとは、以下のようなものだ。

多襄丸は、男をだまして縛り上げた後女を犯し、そのまま立ち去ろうとしたところ、女から、夫が死ぬかあなたが死ぬかどちらかが死んでほしい、二人の前で行き恥をさらすのは忍びないといわれたので、男を殺す気になったと答える。だが卑怯な殺し方はしたくないので、男の縄を解いて正々堂々と戦った上で殺した。しかし女は我々が戦っている間に逃げ失せてしまった、というのだ。

これに対して女の方は、犯された後で夫の前に行ったら、冷たい目で見られ、生きているのがつらくなった、そこで二人で心中しようと思ってまず夫の胸を短剣で突いたが、自分は死にきれないで生き残ってしまった、と答えた。

巫女の口を借りて夫が語ったのは次のようなものだった。賊は妻を犯した後しきりに妻に言い寄っているふうだったが、そのうち妻が賊に向かって夫を殺してほしいと言い出した。その言葉を聞いた賊は妻を蹴り倒し、自分の方に近づいてきたが、その間に妻は逃げ去ってしまった。賊は自分の縄をほどくとそのまま立ち去ったが、その場に残った自分は生きているかいがなくなって、妻の残していった短剣でわが胸をついて自殺したのだ、と。

三人の証言の様子は、映画でもほぼそのままに採用されている。そして三人の証言がそれぞれ違っているのは、みな自分に都合の良いように、つまり自分の体面を損なわないように、話を作り上げているせいだとアピールする。その上で映画では、原作にない部分を付け加える。第四の証言者として、樵の話を差し挟むのである。この樵(志村喬)は、原作でも男の死体の発見者ということになっているが、映画ではそれのみならず、男が殺される場面を一部始終目撃したということになっていて、その目撃の内容を、羅生門の中で二人の男たちに向かって話すのである。この映画に羅生門と言う題名がついているのは、この場所で樵が目撃談を語るという体裁に基づいているわけである。樵が語りかける相手は、証言者の一人である旅の僧侶(千秋実)と、行きがかりの下人風の男(上田吉二郎)だ。

樵の話は次のようなものだった。犯された女は、賊に向かって、夫(森雅之)を殺してほしいと頼んだ。賊がひるむと、軽蔑の表情を見せて挑発し、是が非でも夫を殺させようと仕向けた。そこで賊は夫の縄をほどいてやったうえで、夫と戦いを始めようとしたが、夫の方では、こんな女のために命をかけるのはごめんだといって応じようとしない。そこで妻が血相を変えて賊をけしかけ、ついに夫を賊に殺させた。その後妻は首尾よく逃走していった。

樵は部外者であるから、その証言にはもっとも信憑性がある、と誰もが思いがちだが、その話を聞かされた行きがかりの下人風の男は、そう簡単には信じようとしない。お前の話だって、どこまで信用できるか分かったものではない、重大な証拠品である短剣が出てこないのも、お前が盗んだからではないか、というのである。

こんな押し問答をしているところに突然赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。誰かがそっと捨てて行ったらしい。行きがかりの男は無慈悲にも、その赤ん坊の着ている着物を剥ぎ取って去ろうとする。樵はそれを制止しようとするが、お前にはそんな資格がないといって、男は土砂降りの雨の中を意気揚々と去っていく。この映画の中の羅生門のシーンは、最初の場面から土砂降りの雨に見舞われていたのである。

赤ん坊を抱いている僧に向かって、樵は自分が引き取ろうと言い出す。家には六人の子供がいるが、六人育てるのも七人育てるのも大した変りはない、というのだ。その言葉を聞いた僧は、おぬしのおかげで人を信じることが出来た、といって感激する。その感激に呼応するように、いままで土砂降りに降っていた雨がやみ、晴れ間が覗き出るのだ。

この場面は全くの付け足しで、それまでの流れとは無関係だし、あらずもがなの印象を与えると言うので、当時随分と批判の対象となったということだ。黒沢本人は、たしかに唐突かもしれないが、これがないと映画に収まりがつかないと弁明したそうである。

ともあれ、この映画は色々なところに細工が施されていて、見る者を飽きさせない。見終った後で、あっという間に過ぎ去った時間の厚みを、改めて感じさせる作品だ。









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