キルケゴールの実存概念

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キルケゴールの実存概念は、シェリングの「現実存在」という概念をヒントにしたものだ。シェリングはこれを、ヘーゲルのいう「存在」の概念と対比させながら持ち出したのであるが、それがヘーゲルの「存在」のような抽象的な概念なのではなく、具体的な存在についての現実的な概念だというだけで、中身は必ずしも明らかではなかった。そこでキルケゴールは、自分なりにヘーゲルの存在概念を徹底的に批判することを通じて、「実存」概念を充実させていったのである。

キルケゴールがこの概念について立ち入って言及しているのは、「哲学的断片への後書」と言われている著作の中である。この著作の正式な名称は「哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき~無言劇的・激情的・弁証法的集めがき、実存的提訴」という。無言劇的・激情的・弁証法的であるとともに、実存的な関心から書かれたのだと断っているように、ヘーゲルの存在に対立するものとしての「実存」の視点を強く意識しているわけである。

キルケゴールが理解するところによれば、ヘーゲルの存在概念は極めて抽象的なものである。それは存在と言いながら、文字通りの裸の存在ではなく、おめかししてすましこんだ存在を対象にしている。というのも、ヘーゲルのいう存在は思惟によって媒介された存在、本質と一体化した存在だからである。本質という衣装を着せられた存在、それは文字通りの存在ではない。そうキルケゴールはいうのだ。

ヘーゲルの存在は思惟の対象である。それは思惟の中にしか存在しない。思惟によって考えられたもの、思惟によって作られたものである。したがって抽象的なものである。このような存在は本質と違うものではない。

ヘーゲルによれば、物の本質こそ、そのものの存在の証しなのだ。存在が思考の鑑に映った姿、それが本質であり、本質が対象として現前化したもの、それが存在である。本質と言い存在と言い、同じものの違ったあらわれであり、実質においては一つである。その実質的なものとは極めて抽象的なものであり、したがって観念的なものである。観念的とは、人間の頭が考え出したということだ。

実存はそんなものではない、とキルケゴールはいう。実存は思惟によって媒介されなくとも、現にそこに、あるいはここに、ある。またそれは抽象的な概念なのでなく、具体的なこのもの、あるいはあのものである。また実存は永遠に妥当する概念などではなく、時間的な今、そして空間的なここ、あるいはそこに、現にあるものである。

こういうと、キルケゴールの実存は思惟に媒介される以前の裸のままの存在という意味にも受け取られ、したがって自然をはじめとした対象的世界の根源的なあり方という風にも受け取れるが、しかしキルケゴールが「実存」の概念で考えているのは、もっぱら人間の存在のあり方である。彼は人間についてのみ実存という言葉を使い、物質的なものに使うことはない。一方、神についても実存という言葉を使う。というより、神についてこそ、この言葉が重要である。神について存在と言うときには、すでに思惟による媒介を前提としているのであって、神を人間の頭が作り出した、人間の創造物のように取り扱うことになるからである。だから神は存在しているのではなく、実存しているというべきなのだ。

またキルケゴールは、「およそ主体と名のつくほどの主体は、すべて実存に生きる主体である」(白水社版著作集7、杉山好、小川圭治訳、以下同じ)とも言って、実存を人間の本来的あり方としてとらえる。ということは、実存に生きていないものは主体とはいえず、したがって人間の本来的なあり方から逸脱しているということになる。では、実存に生きるとは、具体的にはどういうことなのか。

キルケゴールはそのことを網羅的には語っていないが、「あとがき」中の叙述のなかに、それらしきことに言及している部分があるので、それを取り出してみよう。

まず、「実存に生きているものは、絶えず生成している」という。生成とは、無から有への、非存在から存在への移行であった。ということは、実存に生きている者は、絶えず新たに生まれ出た自分を生きているということになる。というか、常に新しい自分を生み出しているということになる。つまり、あらかじめ決められた生を生きるのではなく、したがって必然性を生きるのではなく、自由を生きるわけである。存在が本質と一致しているかぎり必然性を含んでいる。ところが、実存は本質を含まず、というか本質に先立っているがゆえに、自由なのである。

また、「実存に生きるほんとうの主体的思考家とは、常に否定的でありつつ肯定的であり、逆に常に肯定的でありつつ同時に否定的である」とも言う。ちょっとわかりづらい言い方であるが、要するに、実存に生きるとは、この世界を一つの鋳型のなかに収めて疑わないほど単純なことではない、ということを意味しているようだ。であるから、彼は世界を一刀両断するような真似はしない。したがって、「彼は決して教師にならず、学ぶものの立場にとどまる。常に否定的でありつつ肯定的であるとは、彼が常に真理を追い求めつつある者であることにほかならないのだ」

「実存に生きる主体的思考家が肯定的でありつつ否定的であるという事態は、彼が"おかしみ"と"かなしみ"とを同時に持ち合わせているということにもまた現れている」。普通のひとは"おかしみ"の感情と"かなしみ"の感情を同時に持つことはできない。"おかしい"時には"かなしく"ないのであり、"かなしい"時には"おかしく"ないのである。ところが、実存に生きる主体的思考家には、"おかしみ"と同時に"かなしみ"を感じることが出来る。というか、「"おかしみ"にうらうちされない"かなしみ"は妄想であり、逆に"かなしみ"にうらうちされない"おかしみ"は未熟」なのである。

これもよくわからない言い方であるが、要するに、実存とはスパッと理屈で割り切れるような合理的なものではなく、反対の事柄が同時になりたちうるような、非合理的な、つまり理屈で割り切れないような、事柄なのだということを言いたいようだ。

キルケゴールはここで、プラトンの愛の概念と実存の概念とを比較する。プラトンによれば"貧しさ"と"豊かさ"とがエロースの生みの親であり、エロースはこの両者を併せもっているのであるが、一方実存にとってエロースに相当するものは「無限なるものと有限なるものとの間に、永遠なるものと時間の世に属するものとの間に生まれたあの息子」なのだという。あの息子とは、キリストのことをさす。

しかし、なぜ実存の説明にいきなりキリストを持ち出すのか。論理的な飛躍とも思われるところであるが、それは我々にとってそう見えるだけで、キルケゴールにとっては自然な展開なのである。キルケゴールにとって本当に実存的に生きるとは、キリストの生き方に準じた生き方をすることなのである。キリストは神が受肉することによって人間の世にあらわれた。人間の世にあらわれるや、永遠なるものと時間の世に属するものとの節目となって、両者を結びつけた。つまり時間を生きながら永遠と結びついた。その生き方が実存そのものなのだ。それ故、キリストのように、神と直接結びついて、有限と無限とのつなぎ手として生きること、それが人間にとっての真の実存的な生き方だということになる。


関連サイト:知の快楽 






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