日本の若者は小林秀雄の文章をもっと読むべきか:山折哲雄氏の教養観

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山折哲雄氏はユニークな日本文化研究者であり、筆者も愛読者の一人であるが、時折、首をかしげたくなるような言説に出会ってびっくりすることもある。最近も、慶応の前塾長安西祐一郎氏と交わした対談(東洋経済オンライン上に掲載)を読んで、そこでの氏の言説にやはり首をかしげてしまった。

この対談は、「日本人の教養」をテーマにしていて、その一環として大学教育も話題になったのであったが、その中で氏は、昨年の大学センター試験の国語の科目に、小林秀雄の文章が取り上げられたことを、大変評価していた。その文章は「鍔」といって、文字通り刀のつばをテーマにしたものであったそうだが、多くの受験生は、そこに書いていることがよく理解できず、平均点が前年より16.9点も下がってしまった。そこで、なぜこんな難解な文章を出題したのかと言う批判が巻き起こった。

そこで氏は、大学入試にかかわった若い助教クラスの人たちに意見を聞いてみたところが、小林秀雄の文章はわかりづらくて、非常に人気がなかった、その原因は、小林の文章は非論理的で、コミュニケーションのための言葉としては不十分だから、入試問題には向かないのだ、という答えが、それこそ異口同音の言葉のように帰ってきたそうだ。

小林の文章の対極にあるのは、丸山真男の文章で、論理的で、説得力があってわかりやすい。そこのところが大学教育の中でも評価されて、入試問題にも沢山出題されてきた。そうした流れがあったなかで、今回大学入試センターが小林秀雄の文章を取り上げたことは評価できる、と氏はいうのである。「これは希望の兆しだと私は思った」とまで言っている。

氏がそう思うわけは、日本人は3.11を経験したことによって、「人間とは何か、人間いかに生きるべきか」を問うようになり、その答えを求めて小林秀雄の文章を求めるようになったのではないか、と考えたかららしい。小林の文章には、ただコミュニケーションの円滑化に資するというだけではなく、人生の根本問題を考えさせるようなところがある、といいたいのかもしれない。

筆者が、氏のこういう考え方に違和感を持ったのはほかでもない。大学の入試試験と言えば、高校生の国語教育に与えるインパクトが非常に大きい。高校の国語教育は当然、大学の入試でどのような問題が出題されるかに大いに影響されるだろうからである。したがって、その題材として小林秀雄の文章のように、非論理的でわかりづらい文章が好んで出題され、丸山真男の文章のように、論理的でわかりやすい文章が余り出なくなれば、どういうことになるか。

たしかに、小林秀雄は、氏が「文学の神様」であるというように、その文章には魅力的なものも多い。かくいう筆者も、高校生時代には小林秀雄の文章をむさぼり読んだものである。その結果どういうことになったかといえば、それは多言を要しないと思う。筆者は論理的な思考をあまり重視せず、ものごとを感性的に処理するという傾向を、少なからず自分自身に養わせてしまったのである。それはそれでよいではないか、と氏は言うかもしれないが、筆者はそうは思わない。人間というものは、感覚も大事だけれども、他人とのかかわりにおいては、やはり論理的でなければならない。非論理的にしか振る舞えない人間は、他人との間で適切なコミュニケーションがとれない。ところが大学教育を含む、小青年期の教育というのは、やはり他者との適切なコミュニケーション能力の涵養を重視すべきであって、非論理的な思考を助長するような教育をするべきではないのである。

そういう非論理的な思考というのは、他者とのコミュニケーションを離れたパーソナルな局面で楽しんでいればよい。それはだから、あくまでも個人的な事柄、つまり趣味の世界に属するものであって、公教育が取り組むべきことではない。公教育は、あくまでもコミュニケーション能力の涵養に勤めるべきなのである。

ところが氏が言うことは、公教育が個人のパーソナルな感性にまで踏み込んで指導しようとすることに他ならない。感性とは、あくまでもパーソナルな私の世界のものであって、公の世界で論議することではない。それをいっしょくたにするのは、公と私との境を踏みにじるものであって、日本の若者の教育という点では寄与するところがないばかりか、有害ですらある、というのが筆者の考えだ。氏はそれを教養の問題にかこつけて合理化する算段かもしれぬが、教養には論理的な思考も不可欠のものとして含まれることを忘れてはいけない。

以上述べたこととはまた違った意味で、小林秀雄のような非論理的な思考は問題を孕んでいる。小林秀雄が、真珠湾攻撃の成功に沸く熱気の中で催された「近代の超克」という座談会のメンバーであったことはよく知られているが、その座談会に集まった連中というのが、どれもこれも非論理的思考の持ち主ばかりであった。その座談会を主催した川上徹太郎は、出席したメンバーを評して当代一流の人物たちと紹介していたが、その当代一流の人物がそろって非論理的な空論にうつつを抜かしていたのは、なにも特異な出来事ではなく、かれらが当時の日本人の知的水準を代表していたというに過ぎない。つまり、国民のほとんどが、非論理的な思考に慣れ親しんでいたわけである。

山折哲雄氏のいうことは、そういうような状態に、日本人の知的水準を引き戻そうと言っているように聞こえる。







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