隠し砦の三悪人:黒沢明の世界

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黒沢明の映画作りにとって「隠し砦の三悪人」はひとつの転機を画した作品なのではないか、というのが筆者の印象である。それまでの黒沢映画には、同時代への鋭いまなざしや人間性への信頼といった視点があった。ところがこの映画では、そうした視点は極力後退し、娯楽としての要素が前面に出ている。映画というものが、基本的には娯楽として始まったことを思えば、これは当然のことといえるが、黒沢はその当然のことをとことん追求した。どうせ娯楽としての映画を作るのなら、目いっぱい娯楽として楽しめる映画を作ってやろう、というような黒沢の意気込みが、この映画には感じられる。そんなこともあって、この映画は、単なる娯楽映画を超えて偉大な映画になり得ている。

なにしろ奇想天外な物語が展開する。国を滅ぼされた侍大将が、生き残った姫君を担いでお家の再興をはかる、そのためにかつての同盟国に援助を仰ぐべく、姫君を伴って窮地を脱出しようとする、その脱出劇がこの映画のすべてなのだが、何しろその過程で、三船敏郎演じる侍大将が、それこそスーパーマンのような超人的な活躍をする。その活躍の場面がこの映画の見所なのである。それ故これは、アクション映画ともいえるし、またサスペンス映画ともいえる。喜劇としても十分に楽しめる。というのも、この脱出劇にひょんなことから加わることになった二人の百姓(千秋実と藤原釜足)が、欲に駆られた人間の浅ましさを、コメディタッチで演じているからだ。アクション映画としては、この映画はこれ以降の黒沢のアクション映画のさきがけと言える。三船敏郎演じる侍大将は、用心棒や椿三十郎の原形と言ってもよい。

舞台は戦国時代の日本のどこか。そこに秋月、山名、早川の三つの領国がある。秋月は山名との戦に敗れ、領内を占領されている。秋月の侍大将真壁六郎太は秋月の姫君である雪姫(上原美佐)を山奥の隠し砦に匿い、後日のお家再興を夢見ている。そこへひょんなことから二人の百姓太平(千秋実)と又吉(藤原釜足)が紛れ込んでくる。二人は一旗揚げようと戦に加わったのだったが、負け戦となって故郷(早川領)へ帰りたくとも帰れないでいるのだ。そんな二人を道連れにして、六郎太は旧同盟国である早川領に向かって出発する。秋月領から早川領への道は山名側によって封鎖されているので、山名領を経由して早川領に入ろうという計画を立てる。その方が、山名側の備えが薄いだろうと判断したからだ。

六郎太はお家再興に備えて巨額の軍資金を用意してある。それはすべて、金の延べ棒の形にして薪の中に仕込み、泉の底に埋めてある。その薪を掘りだし、人馬に背負わせて旅路を急ごうというわけである。その途中に一行は様々な苦境に遭遇するが、そのたびに六郎太の超人的な活躍によって危機を脱出するのである。

アクションの最初の見せ場は、関所破りとそれに続くシーンである。山名が設けた関所を、一同が通り過ぎる。その際に六郎太が知略を弄して関所の役人を騙す。その騙し方が中々痛快だ。おそらく黒沢は能「安宅」を念頭においてこの場面を作ったと思われる。同じような場面を黒沢は、「虎の尾を踏む男たち」のなかでも取り上げていた。

この場面に続いて、山名から追っ手を駆けられるシーンが出てくるが、その中で馬に跨った六郎太が敵方を追いかける場面がある。それがまた迫力満点なのだ。全速力で走る馬の上に立ち上がった三船敏郎が、刀を構えて相手方に切りかける、切られた相手はもんどりうって地面に叩きつけられる。勢い余った六郎太はそのまま相手方の陣地の中に飛び込んでしまう。そこには敵方の大将で六郎太とは多年の知己である田所兵衛(藤田進)がいた。兵衛は武士の情として六郎太との一番勝負を申し出る。こうして二人の決闘が展開されるのだが、これがまた異様な迫力だ。槍で戦った挙句、ついに六郎太が勝つと、兵衛は首をとってくれと言うが、六郎太はそのまま立ち去る。

次の見どころは、山中での火祭りの場面とそれに続く逃避行のシーンだ。この火祭りというのが、膨大な薪を燃やして火柱をあげ、その周囲を白装束の百姓たちが取り囲んで踊るというもので、盆踊りと言うよりは、カルト集団の儀式のようなものを思わせる。黒沢が何をモデルにしてこんなシーンを思い付いたのかわからぬが、この踊りの中には雪姫たちも加わって楽しんでいる様子に描かれているので、黒沢の視点が批判的でないことは明らかだと思われる。

勢いに呑まれるまま、金を仕込んだ薪の山も大八車とともに焼いてしまった一行は、熾火のなかから金を掘り出してズタ袋に詰め、持ち帰ろうとする。そんなズタ袋がどこから出て来たかなどと、余計な詮索をする必要はない。この映画は、リアリズムにはこだわらないからだ。ともあれこうして逃げようとするところに、山名の追手が迫ってくる。相手側は飛び道具を持っている。飛び道具の前ではさしもの六郎太もなすすべがない、というわけで、六郎太たちは捕えられてしまうのだ。

このあとの首実検の場面で再び兵衛(藤田進)が登場する。兵衛は六郎太を逃したことを主君からとがめられ、大勢の前で面罵されたうえ、顔に大きな傷をつけられていた。この辱めは、お前が無用な同情をしたからだ、といって兵衛は六郎太を責めるのだが、どういうわけか最後には心を入れ替え、再び六郎太を助けるのである。

その場面というのがまた面白い。六郎太と雪姫を馬に乗せて処刑場へ連れて行く途中、兵衛は「裏切りごめん」といって部下たちを切り崩し、その間に六郎太たちを逃がしてやり、自分もその後を追うのである。

最後は、御家再興がなって侍大将に復活した六郎太が勇猛な姿で登場する。兜には秋月のシンボルである三日月の印がついている。雪姫の方は、姫らしい恰好をしている。それまでは、逃走の身からして男のような格好をしていたのである。彼らの前の白州には太平と又吉が畏まっている。二人は首をはねられるものと観念していたところに、思いがけない姿で現れた六郎太と雪姫を見て仰天する。その二人に六郎太は金一枚を与える。本来なら薪の中に仕掛けられた金を山分けにするところだが、この金はお家再興のための貴重な軍資金だ、姫にだって自由になるものではない、だからこれで許せというわけだ。このたびは二人とも文句を言わず、有難くそれを受け取る。何しろ命が助かっただけでも見つけもの、その上褒美をもらったのだからいうことはない、というわけだろう。

二人がこんなにあっさりと引っ込むのを見て、観客はいささか意外に思うかもしれない。というのもこの二人は、映画の最初から最後近くまで、欲の塊のような人間として描かれていたからだ。何度も六郎太たちを裏切って来たし、また寝ている雪姫を強姦しようとして連れの女に脅かされもする。すべては欲に駆られてのことなのだ。そんな彼らが最後にはさっぱりと欲を捨て、欲よりも互いの友情の方が大事だなどと言い出す。それまでは、欲のために友情は度々損なわれてきたのに。

こんなわけで、この映画には黒沢のトレードマークともいえるヒューマニズムの影がほとんど見られないが、ひとつだけそれに近いシーンが出てくる。宿場町で一夜を明かした際に、宿場の女郎が秋月領の女だと知って、雪姫が買い戻すように六郎太にせまる場面だ。六郎太は余計な同情は禁物だと言って雪姫の希望を退けようとするが、雪姫は必死になって自分の思いを主張する。この雪姫の主張のうちに、黒沢のヒューマニズムの影が、ちらりとながら伺われた。










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