モディリアーニの肖像画

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アメデオ・モディリア-ニ(Amedeo Modigliani)といえば、若くして死んだ天才であり、その強烈な画風で人々の心を捉え、いまでも世界中に熱狂的なファンを持っている。その展覧会は、個人の展覧会としては、どこででも最も多い観客を動員する。日本においても、いつだってモディリアーニの展覧会は、すさまじい反響を呼び起こし続けてきた。

彼が、かくも人々の関心を引くのは、彼の作品に潜んだ魅力もさることながら、その数奇な生きざまにも理由がある。モディリアーニは若い頃から、ベル・エポックのパリのヒーローだった。芸術の才能だけではなく、その独特な立居振舞が、人々から一目置かれたのである。そんなモディリアーニの周りに、ピカソやブラックを始めとした多くの芸術家や、コクトーやアポリネールなどの前衛的な文学者たちが集まってきて、ある種のサークルを形成したわけなのである。

当時のモディリアーニについて書かれた文章は沢山あるが、ロシアの文学者イリア・エレンブルグによるものが、もっとも生き生きとしている。「人々、年月、生きざま」と題した回想録の中で、エレンブルグは、モディリアーニについての通俗的な伝説を一蹴しながら、次のように書いている。

「映画や小説の主人公になっているのは、絶望と狂気の瞬間のモディリアーニである。しかし、現実のディリアーニは、ロトンドで酒を飲み、コーヒーに汚れた紙に絵を描いていただけでなく、何日も何か月も何年もイーゼルの前に立ち、油で裸体画や肖像画を描いていたのだった」(小笠原豊樹訳、以下同じ)

実際には、モディリアーニが裸体画を描いたのは1917年前後の短い期間に過ぎず、数点の風景画や、人生前期に没頭した彫刻を除けば、モディリアーニは肖像画ばかりを描いていたのである。こんなに肖像画ばかりを描いた画家は、現代美術の中ではめずらしい。肖像画だけで有名になったものは、モディリアーニだけである。それは、彼の肖像画が、独特の魅力を湛えているからに他ならない。その魅力について、エレンブルグは次のように書いている。

「かれの画布はいつも人間の本性を開いて見せる。たとえば、ディエゴ・リベラは鈍重で、ほとんど野蛮である。スーチンは、悲劇的な不可解の表情を、絶えざる自殺へのあこがれを秘めている。だが、おどろくべきは、モディリアーニの様々なモデルたちが、お互いに似ているということである。かれらを結び付けているのは、一つ覚えの手法や、外面的なタッチの類似ではなく、ひとりの芸術家の物の感じ方なのだ。毛むくじゃらのシェパードのような善良そうな顔をしたズボロフスキー、呆然自失したスーチン、シュミーズ姿のやさしいジャンヌ、小さな女の子、老人、モデル女、どこかの鬚男~かれらは、たとえ顎鬚を生やし、髪に白いものが混じっていても、だれもが、いじめられた子供そっくりである。モディリアーニには、人生というものが、意地悪い大人たちの作った巨大な幼稚園のように見えていたのではないか」

たしかに、モディリアーニの絵からは、人間の内面的な感情が、にじみ出ているかの感じを受ける。そしてどのモデルも互いに似ている。それは、エレンブルグは重視してはいないが、モディリアーニ特有の様式の為であろう。モディリアーニには、そうした様式を意識的に確立しようとして努力した形跡がある。その努力の軌跡は、作品を年代順に見ていくことによって、ある程度見えて来るものである。

このシリーズでは、モデキリアーニの作品を年代順に見ていくことで、モディリアーニがどのようにして、あの独自の様式美を確立していったか、その軌跡を見てみたいと思う。


なお、ここに紹介するのは、モディリアーニの自画像である。モディリアーニは、頼まれればどんな人の肖像画も描いてやったが、自画像を描くことはほとんどなかった。この自画像は、1919年に、死の近いことを予期して描いたのだと思われる。

モディリアーニは子供の頃から病気がちで、結核の持病をもっていた。そのために36歳の若さで死んだわけだが、晩年には病気の進行に苦しみ、すっかり痩せこけてしまったという。この絵の中のモディリアーニも、痩せ細って弱々しい印象に描かれている。

モディリアーニはこの絵を、妻のジャンヌや幼い娘のために、形見として残してやったのかもしれない。

(1919年、キャンバスに油彩、100×64.5cm、サンパウロ、現代美術館)







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