カンター敗北をどう見るか:アメリカの予備選システム

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今年秋に行われる上下両院の議院選挙に向けて、いまアメリカでは予備選挙が行われている最中だ。そんな中で、共和党の下院院内総務として大きな政治的影響力を持つといわれたエリック・カンター議員が、ティー・パーティ系の全く無名の新人に大敗を喫して、政治の舞台から消え去るという、思いがけない事態が起こった。アメリカではこのことをめぐって、すさまじいほどの議論が巻き起こっているらしく、その中で、これは前代未聞の、政治の常識では考えられない事態だとする論調が支配的だということだ。

この事態の政治的な意義については様々な見方があるだろう。しかし筆者が感じたのは、アメリカの政治制度が持っている、ある意味健全な要素が、この事態で改めてあぶりだされたということだ。

アメリカでは、大統領の本選挙に先立って、民主、共和両党それぞれの内部で、大統領候補を選ぶための予備選挙が制度的に組み込まれていることは、日本でもよく知られている。各党の候補者は、この予備選挙に勝ち抜くことでそれぞれの政党の代表者となり、大統領選挙の本番に臨むわけである。とかく密室内での談合によって主要政党の総裁候補が(したがって総理大臣になるべき人が)決まる日本とは大きな違いである。

今回の事態は、こうしたアメリカの予備選挙の制度が、大統領のみならず上下両院の議員候補者にも採用されているという事態を、筆者を含めて、日本国民に鮮明に印象付けたのではないか。

アメリカと同じく小選挙区制度を基本とする日本の現在の選挙制度においては、各候補者の選定は、政党執行部の胸先三寸にかかっていると言ってよい。議員は政党の執行部に公認候補者と認められることによって、はじめてその政党から立候補できる。したがって、彼らが思想信条から具体的な政策の中身まで、党執行部の意向に屈服するようなシステムになっている。政党の公認候補者として選挙の洗礼を受け、議員になった人々は、政党に対して従順にならざるを得ないようになっている。そうでなければ、次回の選挙において、現在の執行部が健在している限り、公認を得られないからだ。

日本のこうしたシステムの下では、議員個々人に主体的な政治活動を求めるのは、ないものねだりに等しい。議員個人は、一人の見識を持った政治家と言うよりは、数合わせの対象でしかありえなくなるからだ。

ところがアメリカでは、予備選挙制度というものがあるおかげで、議員個々人に、それを戦い抜く努力が求められる。いい加減な姿勢ではこの予備選挙を戦うことはできず、したがって党の公認を得ることもできない。だから議員個々人は、政治家としての自分の能力を絶えず高め、その能力を以て党公認の地位を勝ち取り、本選挙を戦えるように努力することを強いられる。個々の議員は、決して受け身の投票マシンには甘んじていないのだ。

そうした姿を見せられると、日本の政治のあり方について、これでよいのかという気持に、改めてさせられる。日本では無論予備選などはなく、各政党の候補者は、先程いったように、執行部の胸先三寸によって決まる。だから個々の議員を目指すものは、有権者に向かってではなく、党の執行部に向かって顔を向けるようになる。

こんな議員ばかりが日本の政治を担当するようになれば、どのような事態が待ち受けているか、小学生でもわかろうというものだ。何しろ日本では、ブラック企業の経営者のような反社会的な連中まで、政党執行部の覚えがあれば、議員になれるのだから、これを腐敗と言わずして、何と言ったらいいのか。筆者などは義憤を覚えるばかりである。







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