平安時代後期の浄土美術

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四百年近い平安時代のうち、十世紀後半から十二世紀末までの二百数十年を平安時代後期とするのが美術史上の通説である。この時代はさらに、前半の摂関時代(藤原時代)と十一世紀末からの約百年間にわたる院政時代に再区分されることもある。また、この時代全体をさして、王朝時代と呼ぶこともある。

平安時代前期が密教美術の時代だったとすれば、平安時代後期は浄土美術の時代ということができる。浄土美術とは、一言で言えば、浄土教(阿弥陀信仰)を視覚化したものだと考えてよい。この時代全体を通じて、阿弥陀信仰が強まり、有力者たちは阿弥陀仏を作らせて、それを阿弥陀堂に安置して礼拝した。また、阿弥陀仏のいます浄土を描いた浄土変や死後阿弥陀仏に迎えられ成仏するさまを描いた浄土来迎図などが作られ、これらが全体として浄土美術を形成したわけである。

中国では隋の時代(六世紀末)から阿弥陀信仰が盛んになり、七世紀に入って浄土教が発達したが、日本で盛んになったのは八世紀の後半からである。十世紀には天台教団の中に、良源と源信が現れ、浄土教の普及に大いに力を尽くした。とくに源信の「往生要集」は、阿弥陀信仰に強い影響を与えたといわれる。

こうして、十世紀後半に及んで、藤原氏など平安貴族を中心に阿弥陀信仰が広まり、それに伴って浄土美術もまた盛んになっていった。

まず、浄土美術の舞台となった寺院建築であるが、摂関時代のものとしては、藤原道長による法成寺、その子頼道による宇治平等院が代表的なものである。このうち法成寺は滅びてしまったが、平等院はいまもなお当時の姿を伝えている。このほか、摂関時代に作られた浄瑠璃寺は九体阿弥陀像を安置する阿弥陀堂としては、現存する最古のものである。

摂関時代に作られた彫刻を藤原彫刻あるいは藤原仏などと呼ぶ。作者としては定朝が有名であり、優雅な雰囲気の作風が特徴である。

院政時代には、白河、鳥羽、後白河の各上皇が、それぞれ阿弥陀仏とそれを納める阿弥陀堂を作った。白河上皇は洛東白河の地に六勝寺と総称される諸寺を作り、鳥羽上皇は鳥羽の離宮に証金剛院をはじめとしたいくつかの阿弥陀堂を作り、後白河上皇は洛東の法住寺を拠点に阿弥陀堂などを作った。

院政時代は浄土美術が地方にも広がった。平泉の中尊寺はその一大拠点であり、金色に輝く堂内には、阿弥陀如来を中心に諸仏・諸天の像が納められている。また九州の臼杵には、阿弥陀如来の石仏が作られた。

関連サイト:日本の美術 






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