吉田茂と広田弘毅:西部邁、佐高信「思想放談」から

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西部邁と佐高信は吉田茂嫌いでも一致しているようだ。その理由を西部は、吉田が非日本人的であることだと言っている。その更に根っこの理由としては、吉田が対米従属の戦後レジームを作り上げた張本人だということがあるらしい。吉田は、戦時中にはほとんど何もせずにいたくせに、戦後になると一躍花形政治家になった。それはアメリカが吉田の利用価値を認めて登用したやったおかげで、吉田本人の実力ではない。吉田は、アメリカの威光をバックにして政敵どもを叩き潰し、自分の思うような戦後レジームを作り上げた。そのレジームというのが対米従属の平和主義というものであり、それが西部には非日本的な軽挙の如く受け取られるということなのだろう。

一方、佐高の方は、吉田には惻隠の情がないと言っている。たとえば、河野一郎の屋敷が右翼によって焼かれた時に、吉田は愉快だと言ってせせら笑った。他人の不幸を愉快がるのは、つまり惻隠の情に欠けている証拠で、人間として一段下等であることを物語っている、というわけである。そんな根性だから、自分自身も邸を焼かれるはめになるのだ、と佐高は吉田に対して手厳しい。

西部によれば、吉田茂という男は、牧野伸顕の娘を嫁にして、自分も天皇につながる重臣気取りでいた。そんなエリート意識が、例の「不定の輩」というような発言をさせたというわけである。ところが吉田自身の先祖は土佐の自由民権派であった。それが権力の中枢に潜り込むことで、事大的なエリート意識を持つようになっただけで、いわば成り上がり者に過ぎない、とこれも吉田に対して手厳しい。

西部と佐高は吉田の矮小性を、石橋湛山などと比較しながら検証しているが、筆者が思わず飯を噴き出したのは、比較対象として広田弘毅を持ちだしてきて、吉田に比べれば広田ははるかに立派だったというような議論をしていることだ。戦時中の吉田は、戦局の動向について高見の見物を決め込んで、何もしようとはしなかった。石橋湛山などは、身の危険をおかして軍部の横暴さを批判していたときに、吉田は何の発言もせずに、知らぬが仏を決め込んだ。その点、広田弘毅は、自分なりのやり方で軍部に抵抗しつつ、日本国家の運命を自分で引き受けた。だから、極端なことをいえば、絞首台に上るべきは広田ではなく、吉田だったのだ、というような、それこそ極端なことまで言っている。

二人が広田を持ち上げたのは、吉田憎しの反動だと思うが、筆者は広田を、どのような意味からも評価するわけにはいかない。二人は広田が軍部に抵抗したなどと言っているが、その事実認識はおかしい。広田は、「軍部大臣現役武官制」というものを20数年ぶりに復活させて、現役の軍人でなければ陸海軍大臣になれないという制度を作り、その後の軍部独走の露払いをした。また、ドイツとの間で防共協定を結ぶ一方、東アジアへの侵略を強化した。更に、「不穏文書取締法」を制定して、あらゆる言論を取り締りながら、日本を軍国主義路線に染め上げて行く旗振り役をつとめた、というのが歴史の真実である。そんな広田を積極的に評価するのは、いくら吉田が憎いといっても、片手落ちと言うべきだろう。

たしかに二人のいうとおり、戦時中の吉田は高みの見物を決め込んで何もしなかったかもしれないが、しかし広田のように、日本を破滅に向かって導いていくといったような、ひどいことはしなかった。ひどいことをするよりは、何もしないことを以て上策とす、というのが常識的な見方だろう。

ともあれ、そんな吉田を罵倒して西部は、「たかだか、東大出て高級官僚になったくらいで天下を取ったような感じで、肩で風切った」と言っているが、この言葉は、ほぼ(高級官僚を大学教授に置き換えれば)そのまま、当人の西部にも当てはまるのではないか。






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