日本のクローニー・キャピタリズム

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先稿「クローニー・キャピタリズム」の中で筆者は、各国における経済のクローニー度を分析した雑誌 Economist の記事を紹介しながら、日本はいまのところ世界で最もクローニー度が低い国と結論付けた。だが、そうも言ってられないようだ。日本にもクローニー・キャピタリズムの模範のようなものが存在する。原子力村といわれるのがそれだ。

日本の原子力村はクローニー・キャピタリズムの重要な特徴をそなえている。政府と密接な関係で結ばれている。様々な規制を通じて利害が守られている。彼らが受け取る利益に対して、彼らが社会に還元する貢献が少ない。もっと率直に言えば、利益は自分たちの仲間で分配して、損害は社会のツケに回す。福島原発の事故で起きた事態がその典型的な例だ。

原子力村が、今の自民党政権の姿勢によって勢いづいていることはたしかだ。停止中の原発を、ろくな安全対策も講じないままに再稼働させようとしたり、代替エネルギー源として期待されている再生可能エネルギーの買い取りに制限を設けようとしているのは、そのいい例だ。

再生可能エネルギーの買い取り制限の理由が噴飯ものだ。予想以上に申し出があったので、送電の能力が間に合わないというのだ。送電が間に合わないほど豊かな発電が可能になったということは、なにも原発に頼らないでも、日本のエネルギー政策は成り立つということではないのか。それなのに、原発の再稼働は進めて行きたいという。これは、原発の再稼働にとって、再生エネルギーの存在は煩わしい、ということを主張しているようなものだ。

安倍政権が原発にこだわるのは、利権の確保ということばかりではないらしい、とうことは半ば公然に語られていることだ。安倍政権は本音では、いつでも、即時に、核武装するように態勢を整えておきたい、そのためには、脱原発を推進するわけにはいかない、そう考えているのだと思う。だがそれならそれで、もっとスマートなやり方があるだろう。

核武装に、いつでも、即時に、取り掛かるためには、何も原発を沢山稼働させておく必要はない。核武装に必要な最小限の原子炉があれば十分なはずで、原発をやめた部分は再生エネルギーでまかなう、という風に政策を決めればいいだけの話だ。

だが、そうはできないわけがあるのも事実だ。日本は、表向きは核拡散の防止に賛成しているので、自分から核武装を言いだすことができない。そこで、将来の核武装に備えて、姑息な手を使おうというわけなのだろう。






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