平成廿七年を迎えて

| コメント(0)
150101.sheep.jpg

平成廿七年の元旦を迎えるにあたって、今年は未年だというので、羊の絵を描いて家人に見せたところ、余り似ていないという。羊はこんなに耳が大きくないし、もっとずんぐりむっくりしてかわいいはずよ、というのだ。これじゃ、たまごのおもちゃみたいだわ、とも。

そうかなあ。で、羊の方はともかく、女の子の出来はどうだい、と聞くと、そちらのほうはまあまあね、女の子らしいわと、こちらは女の子を持ったことのない家人が請け合ってくれた。

羊は、馬や牛と並んで、古くから人間と付き合ってきた動物だ。中国でも、既に八千年前には羊と人間は付き合っていたらしい。だからだろう、漢字には羊を象形化した文字が多い。だが、その漢字文化を受容した我が国の文化では、羊はそれほど馴染みがない。せいぜい「羊頭狗肉」とかいう中国のことわざを、申し訳程度に引用してお茶を濁す程度だ。

そんな事情が働いているのか、あの熊楠先生の「十二支考」を繙いても、羊に割り当てられた紙数は、他の動物の何分の一以下と言った具合だ。熊楠先生は、羊の項目を書きだすにあたって、「張り交ぜの屏風ひつじの五目飯」という川柳を引用している。羊が紙を好んで食うことを詠んだものだ。羊に食わせるほか用のないものに、無駄な資源を使うなという意味だろう。そこで先生も、羊に関しては、余り無駄な紙を用いませんと、自分の横着の言訳にしているわけであろう。

羊が生贄の動物として用いられるのは洋の東西を通じて共通しているらしい。聖書には、アブラハムが息子のイサクを生贄にしようとしたところ、ヤハヴェがそれを憐れんで、代わりに羊を差し出せと指示する話が出て来る。それほど古い時代から、羊は人間たちの神のために生贄にされるかたわら、人間たちによって食われても来たのだった。

中国には、羊が牛の代わりに生贄にされる話があるという。これは、牛が死を恐れること甚だしいのに対して、羊が死をちっとも恐れないからだと伝えられている。羊が死を恐れないということは孟子にも出てくるというから、随分古くからそう信じられていたのだろう。羊が生贄として使われることの背景には、人間の羊に対する、こういった勝手な思い込みが働いているのかもしれない。羊にとっては迷惑な思い込みというほかはない。





コメントする

アーカイブ