フェリーニのローマ:フェデリコ・フェリーニ

| コメント(0)
ita.fellini06.roma10.jpg

フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の1971年の作品「フェリーニのローマ」は、ローマへのフェリーニのオマージュと言うか、ローマで生きるイタリア人のイタリア的生き方に対するオマージュのような映画だ。それも単なるオマージュではなく、フェリーニの生き方に重ねてのオマージュだ。ということはつまり、フェリーニはローマを賛美しながら自分自身を賛美しているわけだ。

フェリーニ少年は、ローマから340キロ離れた地方の町で育ち、常にローマへの憧れを周囲から叩き込まれた。その憧れは、ローマへ通じる道によって現実感を付与されていた。少年であったフェリーニは、イタリアのすべての道はローマに通ず、と教えられたのだ。

青年になったフェリーニは、念願のローマに出て来た。丁度第一次世界大戦たけなわのことだったが、映画の中では、戦争の影はあまり目立たないし、青年フェリーニにも、戦争の影は射さない。彼は、失業中のジャーナリストとしてローマに現れるのだ。

それから30年が経って、1971年のフェリーニは映画監督になってロケの撮影に精を出している。この映画は、少年時代から青年時代を経て初老の頃合いに至るフェリーニの半生に絡ませて、ローマに生きる人々の、一見猥雑だがエネルギーあふれる生き方を、時間を自由にワープしながら描いていく。その描き方は、例のフェリーニ流のやり方に従っており、筋書きなどは無視して、ひたすら現在を生きる人々の表情にカメラの焦点を合わせているのだ。

少年フェリーニは、学校の幻燈の授業で女の巨大な尻を見せられ、イタリア女の魅力は尻に宿るという真実を叩きこまれる。青年になったフェリーニは、妖しげなアパートに居候するが、そのアパートは家主と住人とが同居しているような不思議な空間なのだ。青年フェリーニは屋外レストランで食事をするのだが、そこにはありとあらゆるタイプのイタリア人が集まって来て、腹がパンクしかねないほど大量のものを食う。おかげでどんな女も巨体を持てあますようになるわけだ。

1971年のフェリーニは、ボルゲーゼ公園のシエナ広場でロケの撮影をしている。するとそこへ学生たちが集まって来て、もっと社会的な問題を扱った映画を作れとフェリーニに迫る。それに対してフェリーニは、俺が映画で描きたいのは、戦時中のボードビルの喧騒なんだと答える。ボードビルとは、サーカスと売春宿のごった煮のようなものさ、と。

そこで、画面はボードビル劇場へと飛ぶ。舞台の上と客席とが入り乱れて、乱雑かつ猥褻な光景が次々と展開される。その合間に、舞台の支配人が臨時ニュースを流す。連合軍がシチリア島に上陸したというのだ。しかし、イタリアは屈服しない、と支配人は宣言する。ファシズムとムッソリーニがイタリアを救うであろうというわけだ。

そのうち空襲警報が鳴って、人々は地下に非難する。その地下の風景がいつの間にか地下鉄の建設現場に変る。巨大な掘削機が地下を掘り進んでいる。しかし、100メートル進むたびに、ローマ時代の遺跡に遭遇するので、地下鉄の建設はなかなか思うように進まない、というようなことを、建設会社の社員がぼやいているところに、地下鉄のトンネルがローマ時代の地下遺跡に突き当たる。その地下遺跡は巨大な空間で、鮮やかな壁画や大理石の彫刻が収められていた。しかし、それらの遺跡が外気に触れた途端に、ことごとく崩壊する。ローマは、古代と現代が微妙に融和している街なのだ。

地上では、若者たちが愛を語っている。それを見たフェリーニは、自分たちの頃は、女が欲しくなると売春宿に出かけたものさ、とうそぶく。と、青年フェリーニが初めて売春宿を訪ねるシーンが出てくる。売春宿には、高級と低級の区別があり、若い女は高級宿にしかいない。低級宿の女はみなぶくぶくと太った年増女ばかりだ。青年フェリーニは、なけなしの金をはたいて若い女を買ったが、その女が気に入ってデートに誘ったりする。そうすれば、タダでやれるかもしれない、というわけだ。

ついで、枢機卿がとある教会を訪ねるシーンに変わる。枢機卿と信者との間でミサのようなことが行なわれた後、教会内部の空間がいきなりファッションショーの舞台に変化する。そこで、修道僧や尼僧、そしてえらい坊さんたちの僧衣のファッションを見物しようというのだ。その結果を踏まえて、新しい僧衣が工夫されるというわけだろう。

教会の外ではノアントリ祭が催されている。祭の出し物として、レンツィ広場ではボクシングの試合が行なわれている。ノックアウトで勝負がついた頃、何故か警官隊が登場して、祭の見物人たちを蹴散らす。人々が蹴散らされて街に静寂が戻ってくる頃、アンナ・マニャーニが現れて自宅のアパートの鍵を開ける。すると、そのアンナのことを、「処女にして雌オオカミ」と紹介するアナウンスが入る。アンナ・マニャーニは、イタリア女の神髄だ。イタリア人の祖先たるローマ人たちは狼ロムルスの子孫と言うことになっているので、彼女を雌オオカミと形容するのは、侮辱ではなく、最高の賛辞なのだ。

というわけで、映画もクライマックスに近づく頃、オートバイに跨った暴走族が現れて、深夜のローマの街を疾駆し始める。画面には彼らの視野に移ったローマの街が次々と展開する。それを見ているだけで、ローマ案内をされたような気持になる。実に粋な計らいといえよう。








コメントする

アーカイブ