富嶽三十六景:北斎の風景版画

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富嶽三十六景は、天保元年(1830年、北斎71歳)あるいは文政の末年に描き始められ、天保二年から三年頃にかけて順次板行されたと考えられる。総点数は46枚である。そのいきさつについて、天保二年刊柳亭種彦「正本製」十二編下巻の巻末広告が次のように記している。

「富嶽三十六景 前北斎為一翁画 藍摺一枚 一枚に一景つつ追々出版
 此絵は富士の形ちのその所によりて異なることを示す。或は七里ヶ浜にて見るかたち、又は佃島より眺むる景など、総て一やうならざるを著し、山水を習ふ者に便す。此ごとく追々彫刻すれば猶百にも余るべし。三十六に限るにあらず」

これからわかることは、天保二年の段階でその一部が刊行されたということ、それらには前北斎為一翁の落款があったと認められること、摺り方としては藍摺であることなどの外、枚数は三十六に限らずもっと多く予定されていることなどである(実際には46枚だった)。

この記述などをもとに、北斎研究者の浅野秀剛氏や大久保純一氏は、三十六景46枚の絵の制作年次を推定している。ここでは、両氏の推定をもとに、46点の画を、大きく三つのグルーブに分類してみたいと思う。

まず、署名に注目したい。46点のうち、山下白雨や凱風快晴を含む10枚には、「北斎改為一筆」の署名がある。残りの36枚には「前北斎為一筆」の署名がなされている。このことから、46点は二つのグループに大別できる。この二つのグループのうち、「北斎改為一筆」のほうが先に描かれたと考えられる。

残りの三十六枚のうち、上記の広告文で言及されているものは、藍摺の特徴を持っている。藍摺というのは、もっぱら藍色を用いて摺った版画という意味らしい。ここでいう藍色とは合成染料のプルシャンブルーを指す。この染料が天保初年に日本に輸入されてベロ藍と呼ばれ重宝された。その利用は版画の分野にも及び、専らベロ藍だけ或はベロ藍を基調とするものが大量に刷られた。要するに流行のようになっていたわけだ。北斎の版画にもその流行が及び、専らベロ藍を用いたかベロ藍を基調とした版画が刷られた。上記で言及しているのは、そのような作品だと思われる。

大久保氏は、「前北斎為一筆」の三十六枚のうち、甲州石班沢や相州七里ヶ浜を含む10枚が、藍摺のものだとし、上記10枚に続いて描かれたと推測している。残りの26枚は、これらに続いて制作されたと考えられる。そのうちで、最後の10枚は「裏富士」と呼ばれている。富士の稜線が黒い線で引かれているのが特徴である。

以上を整理すると、次のようになる。

・最初に描かれた作品
神奈川沖浪裏
凱風快晴
山下白雨
深川万年橋下
東都駿台
青山円座松
武州千住
甲州犬目峠
尾州不二見原
武州玉川

・藍摺の作品
甲州石班沢
相州七里浜
武陽佃島
東都浅草本願寺
常州牛堀
甲州三島越
信州諏訪湖
相州梅沢左
駿州江尻
遠江山中

・続いて描かれた作品
江戸日本橋
江戸駿河町三井見世略図
御厩川岸より両国橋夕陽見
五百らかん寺さざゐ堂
隅田川関屋の里
礫川雪の旦
下目黒
隠田の水車
上総の海路
登戸浦
相州箱根湖水
甲州三坂水面
東海道程ヶ谷
相州江の島
東海道江尻田子の浦略図
東海道吉田

・最後に描かれた作品(裏富士)
本所立川
従千住花街眺望ノ不二
東海道品川御殿山の不二
甲州伊沢暁
身延川裏不二
相州仲原
駿州大野新田
駿州片倉茶園ノ不二
東海道金谷ノ不二
諸人登山

(参考)大久保純一「北斎の富嶽三十六景」小学館
    有泉豊明「葛飾北斎富嶽三十六景を読む」目の眼







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