ゴヤの黒い絵

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フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco José de Goya y Lucientes 1746年3月30日-1828年4月16日)は、72歳を過ぎた高齢で(1819年)、マドリード近郊にあった通称「聾の家」という建物を買った。所有者が聾唖者であったことからこう名付けられた家に、自身も耳の不自由だったゴヤが何かの因縁を感じて買ったのだろうと推測されている。ゴヤはこの家の、一階食堂と二階サロンの壁に、十四点の壁画を描いた。今日「黒い絵」と称されている連作である。

ゴヤの今日における名声は、この連作と一連の版画に負うところが大きい。もしもゴヤが、版画やこの黒い絵を残さなかったら、平凡な宮廷画家としてとどまっただろうと思われる。ゴヤの生前の名声は、宮廷の王族や貴族たちを描いた肖像画によっていたのであるが、それのみでは、ゴヤは決して美術市場の巨人としての名声を確立することはできなかっただろう。

といっても、版画や黒い絵は、ゴヤの生前には全く評価されることはなかった。版画のうちの「ロス・カプリチョス」を始めて正当に評価したのは詩人のシャルル・ボードレールだったが、それはゴヤの死後かなりたってからのことだったし、黒い絵のシリーズに至っては、20世紀になって初めて評価された次第だ。ということは、ゴヤのこれらの絵が、彼の生きていた時代を超越していたということだろう。

ゴヤは、聾の家を購入した翌年(1820年)からほぼ4年かけて、黒い絵の連作を描いた。まず、二階のサロンから始めた。したがって、二階の絵には相互にあまり関連性が認められないのに対して、一階食堂のほうは、絵相互に響きあうような関連性が認められると考えられている。

これらの壁画は、壁に漆喰を塗り、その上に油絵の具を用いて描くという方法をとっていた。絵の配置は次の通りである。

一階食堂:手前の壁左側  レオカディア
     手前の壁右側     二人の老人
     正面の壁左側     我が子を食らうサトゥルヌス
     正面の壁右側     ユーディット
     左側面の壁       魔女の夜宴
     右側面の壁       聖イシードロへの巡礼
二階サロン手前の壁左側  スープを飲む老人
     左側面の壁手前  運命
     左側面の壁奥    決闘
     正面の壁左側    書類を読む男たち
     正面の壁右側    二人の女と一人の男
     右側面の壁奥    異端審問所の行進
     右側面の壁手前  アスモデウス
     手前の壁右側    犬

ゴヤは、この連作ともども聾の家を孫のマリア―ノに譲ったが、マリア―ノは破産して、この家を手放さざるを得なかった。そして所有者を転々とした後、1873年に、フランスの銀行家デルランジュがこの家を買い取った。デルランジュの目的は、この家の周辺に開発計画があることを見込んだ投機的な思惑にあったが、彼はたまたま芸術愛好家でもあった。そこで、この家を売る前に、これらの壁画を保存しようと思い、当時有名な修復家クベールスに依頼して、壁面から剥してキャンバスに移させた。その際に、大幅な手が入り、原作に重大な変化が生じたものもあると推測されている。

デルランジュはこれらの作品を、1878年のパリ万博に出展したが、それを評価する者は誰もいなかった。そこでがっかりしたデルランジュは、これらの絵を1881年にスペイン政府に寄付した。スペイン政府は、これらの絵をプラド美術館に収めたが、それらが揃って美術館内に展示されるようになったのは20世紀に入ってからのことである。








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