21世紀の男根切り、或は憎しみのコリーダ

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先日、中年の男性弁護士が若い男に男根を切り取られたというニュースが流れた時、所謂安倍定事件を連想したのは筆者のみではなかっただろう。阿部定の場合には、愛する男を永遠に自分のものにする気持ちから、男を絞め殺したうえで男根を切り取り、それを後生大事に持ち歩きながら逃走した。今回の場合には、妻を寝取られた亭主が、憎さの余りに寝取った男の男根を切り取ったということらしい。男根を切り取られれば、もう他人の女房に手を出すこともあるまいと思ったのだろう。

阿部定の場合には、その動機が純粋な愛に基づいていたということで、人々の同情を買った。この事件が起きたのは、2.26事件があった年で、世相は殺伐としていた。そんな世相にあって人々は、陰惨な暴力が忍び寄ってくる蔭に、一筋の光明を見出したような気分になって、阿部定に同情したのだと思われる。先日93歳で亡くなったリベラリストの鶴見俊輔も、阿部定には悪いイメージが湧かなかったと言っていた。

一方今回の事件には、少なくとも筆者は同情の念が湧かない。大方の人もそうだろうと思う。切り取った犯人が若い男であったこと、その動機が妻を寝取られた恨みだったらしいということ、一方、切り取られた男の方は、加害者の妻の雇い主であり、地位を背景にして女性を誘った可能性が否定できないことなど、殺伐としたイメージしか伝わってこない。これでは誰も同情できないのは無理もない。

阿部定の男根切取りの事件と、今回の男根切取り事件と、この二つの事件の間にはわずか80年の時間しか介在していない。その短い時間の中で、愛についての日本人の感性がだいぶ変化したことを感じさせられる。

それはともかく、こんな戯れ歌が何処からか聞こえて来そうである。
~ひとつとせ、ヒト(他人)の女房とやる時にゃ、マラキリ(男根切り)覚悟でせにゃならぬ

なお、副題に「憎しみのコリーダ」とつけたのは、安倍定事件を描いた大島渚の映画「愛のコリーダ」をもじったのである。





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