赤坂真理「東京プリズン」

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赤坂真理の小説「東京プリズン」は、赤坂本人が16歳の少女として体験したアメリカでの生活を、40台半ばの女性としての視点から見つめなおしたというような体裁になっている。とは言え、視点は一様ではない。16歳の少女としての視点から未来の自分を見つめているところもあって、時空をまたいでいるようなところもある。そこから独特のシュールな感じが醸し出される。そのあたりは、日本人の書いた小説としては、過去に例を見ない斬新さと言えよう。

16歳の少女である真理が最初に肌で感じたアメリカとは、暴力的に自分に迫ってくる危険な存在としてのアメリカだ。彼女がアメリカに来てまず見舞われたのは、レイプの危機だった。彼女は二度にわたってアメリカの男からレイプされそうになる。その描写は途中で曖昧になってしまうので、実際にレイプされたのかどうか明瞭ではないのだが、アメリカに来て最初に体験したことがレイプの危機だったことは、彼女に深刻な影響を与えた。彼女は次第に、自分がアメリカ人にレイプされそうになったのと同じようなレベルで、日本という国がアメリカにレイプされていると感じるようになる。この小説の題名が暗示している、アメリカによる日本の断罪は、彼女にとってはレイプのように見えるのだ。

こんな具合で、この小説は日本とアメリカとの関係に徹底的にこだわっている。いまさらなぜそんなことを問題にするのか。それは一つには、著者自身が16歳の少女として体験したアメリカでの生活が、日本とアメリカとの関係を徹底的に考え直さずにはおかないような切実さを持っていたからだろう。また、日本人がとっくに忘れてしまっていることをアメリカ人はいまだに覚えていて、真理のような少女に向かってでさえ、それを思い出させようとしてくる。それは真理にとっては、最初は意外なことのように思えたのだが、よくよく考えてみれば、そのほうが自然で、そんなことはなかったかのように忘れたふりをしている日本人のほうがいい加減なのかもしれない。それにしても、アメリカ人の日本人についての見方はあまりにもステロタイプで、しかも一方的だ。そんな風に感じた真理は、自分なりに智恵を絞って、アメリカ人のステロタイプを批判するようになる。その場が、学校でのディベートなのだ。

このディベートは、教師が真理のために特別に仕組んだカリキュラムで、日本の天皇の戦争責任を、訴訟手続という形で追及しようとするものだ。このディベートの中で真理は、天皇の戦争責任を追及する立場に立たされる。教師のほうではそうすることで、一人の日本人に自分の国の過去を認識させようという魂胆を持っているわけだが、その魂胆に対して真理のほうも自分なりの魂胆を以て望む。それはアメリカという戦争の勝者によって、敗者として一方的に断罪されるのではなく、日本としての言い分を、もしそれがあるとしての話だが、主張してやろうと言うものだ。尤も16歳の少女に、自国の過去や国際関係の歴史を理路整然と語る能力などはない。彼女の主張は感情的に陥りがちになるが、それでも相手の言うことに逐次反論しながら、自分の言いたいことに形を与えながら表現してゆく。この小説の眼目は、そうした彼女の表現の努力を追うところにある。彼女の表現を通じて、日本の過去と現在が抱えている問題が少しずつ形を現してくる、という仕掛けだ。

こう言うと、この小説がかなり観念的だと言っているようにも見られるが、小説そのものは、多少理屈っぽい印象は否めないが、なかなかエロークアントなところもあって、それなりに読ませる。この小説の最大の特徴は、時間や空間の制約を越えて、出来事が自在に絡み合いながら展開してゆくところだろう。たとえば、16歳の少女と40台半ばの成人した女性とが入れ替わったり、娘が母親と入れ替わったりする。他方では、ベトナム人のシャム双生児が出てきて少女にアドバイスしたり、ヘラジカの霊魂らしきものをはじめ様々な幻想的な存在が出てくるなど、シュールな工夫に満ちている。筆者は日本の現代文学には殆ど接することがないのだが、これは日本の現代文学の一つの流れを表しているのか、それとも赤坂真理という作家に固有の傾向なのか、知りたいところでもある。

赤坂のファンタジーは結構硬質だと感じる。たとえば自分が殺されるという幻想の場面で、重い鉄の刃で切り落とされた自分の首を自分の手が受け止めるという描写などだ。一方、女性らしさを感じさせるところもある。たとえば、裸になった男が自分に迫ってくるところで、自分がレイプされる瞬間を想像するところなど。がりがりに痩せて、やっと初潮があったばかりの自分の未熟な体に男が入ってくる。自分の性器は体の真下に開いているのに、男の性器は体の前面についている。それで自分の中に入ってこられたら、自分はお尻の穴まで相手にさらすことになる。そんな想像が一瞬の間に駆け巡るのだが、こんな想像は女性でなければありえないだろう。

訴追手続の場面はなかなかの緊迫感を以て描かれている。アメリカの訴追手続はビジネスライクなことで知られているが、そのビジネスライクぶりは、日本人にはなじめないと真理は感じる。尋問とか反対尋問といったプロセスの主要部分はイエスかノーで答えることが前提に構成されるが、真理には、物事はイエス・ノーで応えられるような単純なものではない。そこで彼女の言い分は、訴追手続のルールを逸脱したものにならざるを得ない。それは訴訟上の戦術としては失敗なのだが、真理にはそれ以外に表現の仕様がない。彼女にはディベートを通じて展開されるアメリカの訴訟手続も、アメリカの正義を押し付ける一方的なものに映るのだ。それは裁きというよりもいじめとして彼女には映る。

いじめと言えば、彼女はアメリカのいじめを日本のいじめと比較している。いじめには集団内の分断と階層化が前提としてあるが、アメリカの学校にあっては、スポーツのヒーローが階層の頂点にあり、チアガールたちがそれを支えるという構図になっている。上下の差別の基準はマッチョな体力にあるわけで、それ以外の基準はほとんど意味をなさない。そういう点でアメリカの階層は一元的だし、いじめもそれに伴って、体力の強いものが弱い者を支配するという単純な形をとる。それに比べると日本の学校では、差別化の基準はスポーツだけではない。勉強が出来るとか、人を笑わせるとか、いろいろな基準によって子供たちは差別化される。その点日本の階層化は多元的である。多元的であるということは、風通しがよいということにつながるので、日本のほうがアメリカよりも、子供たちにとっては風通しのよい社会だと、真理はへんな具合に感心するのである。

ともあれ、この小説を読んで感じるのは、戦後日本社会のいびつな姿への著者赤坂真理の鋭い視線だ。それは、16歳の少女としての真理がマッチョなアメリカ人にレイプされそうになったように、敗戦国としての日本が勝者であるアメリカにレイプされたせいで、国としての誇りを忘れてしまったことへの、怒りのようなものを表している。







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