坂落:平家物語巻第九

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(平家物語絵巻から 坂落)

一旦都落ちした平家は、九州で体勢を立て直し、讃岐の八島に進出して挽回を期していたが、その後、旧都福原付近の一の谷に城砦を築いて、源氏との戦いに挑んだ。その戦いの先頭に立ったのは能登の守教経で、六度にわたって源氏の軍を打ち破った。

一の谷に立てこもる平家を追討すべく、源氏の大軍が侵攻する。源氏側は二手に分かれ、範頼率いる五万の軍が東側から海沿いに一の谷に迫り、義経率いる一万の軍は、一の谷の北側の山から平家軍の背後を突く作戦を取った。この作戦は、鵯越という斜面を一気に落ち下ることから、鵯越の坂落しといわれる。

義経は、手持ちの一万のうち七千を一の谷の西側に回し、自分は三千の兵と共に鵯越の逆落としに臨んだ。巻第九「坂落」の章は、馬で一気に坂を落ちて、平家の軍に襲いかかる義経の勇猛果敢な戦いぶりを語っている。

~御曹司城郭遥に見わたいておはしけるが、「馬共落いてみん」とて、鞍置馬を追ひ落す。或は足をうち折つて、ころんでおつ、或は相違なく落ちて行くもあり。鞍置馬三疋、越中前司が屋形のうへに落ち着いて、身ぶるひぞ立ちたりける。御曹司是をみて「馬共はぬしぬしが心得て落さうにはそんずまじいぞ。くは落せ、義経を手本にせよ」とて、まづ卅騎ばかり、まッさきかけて落されけり。大勢みな続いて落す。後陣に落す人々のあぶみのはなは、先陣の鎧甲にあたるほどなり。小石まじりのすなごなれば、流落に二町ばかりざッと落いて、壇なるところにひかへたり。それよりしもをみくだせば、大盤石の苔むしたるが、つるべ落しに十四五丈ぞくだッたる。兵共ここぞ最後と申してあきれてひかへたるところに、佐原の十郎義連すすみ出でて申しけるは、「三浦の方で我等は鳥ひとつ立てても、朝ゆふかやうの所をこそはせ歩け。三浦の方の馬場や」とて、まッさきかけて落しければ、兵共みな続いて落す。ゑいゑい声を忍びにして、馬にちからをつけて落す。余りのいぶせさに、目をふさいでぞ落しける。大方人のしわざとは見えず。ただ鬼神の所ゐとぞ見えたりける。落しもはてねば、時をどッとつくる。三千余騎が声なれど、山びここたへて十万余騎とぞ聞えける。

~村上の判官代康国が手より火を出だし、平家の屋形、仮屋をみな焼払ふ。折節風ははげしし、くろ煙おしかくれば、平氏の軍兵共余りに慌て騒いで、若しやたすかると前の海へぞ多く馳せいりける。汀には設け船いくらもありけれども、われさきにのらうど、舟一艘には物具したる者共が四五百人、千人ばかり込み乗らうに、なじかはよかるべき。汀よりわづかに三町ばかりおし出いて、目のまへに大船三艘しづみにけり。其後は「よき人をばのす共、雑人共をばのすべからず」とて、太刀長刀で薙がせけり。かくする事とは知りながら、乗せじとする船に取り付き、つかみつき、或は腕うちきられ、或は肘うち落されて、一谷の汀に朱になッてぞ並み臥したる。能登守教経は、度々のいくさに一度も不覚せぬ人の、今度はいかが思はれけん、うす黒といふ馬にのり、西を指いてぞ落ち給ふ。播磨国明石浦より船に乗つて、讃岐の八島へわたり給ひぬ。


総崩れとなった平家軍は、讃岐の八島に退却して体勢の立て直しを図る。






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