日本の報道自由度が低く評価されるわけ

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安部晋三政権が登場して以来、日本の報道の自由度が悪化し、いまや韓国以下の酷い状況だと国際NGOに評価されたことを、先日このブログでもとりあげた。それと同じようなことを、昨日(5月4日)の朝日の天声人語が話題にしていた。それによれば、かつては「報道の自由」の旗を高く掲げ、中国共産党や財界の不正に果敢に取り組んでいた香港の新聞や雑誌が、いまでは権力に抑圧されてすっかりおとなしくなってしまった。そんな香港に比べても、日本の報道の自由度は低く評価されていると言って、天声人語子はため息をついてみせたのである。

そんなため息をついてみせながら、天声人語子は、こうなったことの原因は安部晋三政権による威圧にあると言いたげである。だがはたしてそうか、国際NGOが問題視しているのは、政権による威圧もさることながら、メディア側の姿勢なのではないか、と筆者は先の記事で指摘したところだが、この指摘は香港と日本の報道の状況を比較して論じる際にも当てはまるのではないか。

香港におけるメディアへの権力による威圧は、確かに日本より穏やかだとはいえないようだ。現象的には、日本より酷いことになっている。ところがその香港のほうが日本よりましな報道の自由があると評価されたのは、メディア側に権力に反発する姿勢がまだ見られると判断されたからだろう。報道の自由というのは、権力による抑圧が弱いということだけではなく、メディア側にその自由を守ろうとする気概があるかどうかにもかかわってくる。日本の場合には、韓国や香港と比べても、この自由についてのメディア側の気概に欠けるものがあると判断されたのではないか。

朝日について言えば、最近の紙面づくりでは、権力者への忖度振りが目立つようになってきた。政治的なイシューについては、政府を批判する際には、その反対意見を併催し、両論尊重の姿勢をとるように見せかけている。たとえば今日の紙面を見ると、「オピニオン」欄に、タハケ学者のタハコトを載せている。タハコトというのも、佐伯啓史と称するこの学者は、先の東日本大震災や今回の熊本地震に触れて、日本人はこうした自然災害を前にしては、それを運命と受け止める「あきらめ」が必要だとのたまっているのだが、それは復旧に向けて努力している人々をあざ笑うようなものだ。

この学者がこんなタハコトをいうわけは、人々を世の中の流れに従順にさせ、それをテコにして原発再稼動を合理化しようとする意図があるからだと思うが、そんな意図があるなら正直にそう言えばよいところを、奥歯にもののはさまったような言い方をするから、タハケ学者のタハコトと言いたくもなるわけである。

今回については、「オピニオン」欄の目立つところに、安部晋三政権による改憲の動きを、「権威が備わらぬ」といって厳しく批判した森本アンリ氏の主張を載せているが、これだけでは安部晋三政権から厳しいお咎めがあるのを恐れて、両論併記による中立を装うつもりで、こんなタハケ学者のタハコトを載せたのであろう。そうだとすれば、情けないことである。これでは日本のメディアの報道の自由に対する気概が、韓国や香港以下に評価されるのも無理はない。





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