吉本隆明の西行論

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西行ほどの複雑な人間像ともなれば、その解釈には様々な緒がある。筆者が最近接したものとしては、西行の武士としての出自に注目し、彼が生涯武門の誇りに拘って生きていたとする見方(高橋英夫、武門論的アプローチというべきもの)及び西行と鳥羽上皇の后待賢門院との関係に注目し、西行の歌は待賢門院への片恋が結晶したものだとする見方(瀬戸内寂寂聴、片恋論的アプローチというべきもの)が目に付いたが、その他に僧侶としての西行に注目した僧形論的アプローチと言うべきものもある。吉本隆明の西行論は、その代表的なものである。

武門論的アプローチも片恋論的アプローチも、もとより僧としての西行を軽視するわけではない。西行が剃髪して僧となったのは若干二十三歳(数え年)のことであり、それを彼の生き方のうちでの付随的な出来事と片付けるには、あまりにもインパクトが大きい。それで武門的アプローチでは、何が武士佐藤義清をして僧形に変化せしめたか、そこに大きな焦点を当てることともなり、また片恋論的アプローチにおいては、義清の片恋のどこが彼を脱俗に駆り立てるほどの切ない要因となったかについて、大きな焦点を当てることともなる。だが所詮は、西行が僧になったのは、ある悩みを逃れるための方便だったという位置づけに落ち着く。ところが吉本の僧形論的西行論は、西行の遁世を彼の生き方そのものだとするところにポイントがある。西行が遁世したのは、なにごとかの結果ではなく、それ自体において必然的な事柄であった。遁世することで西行は、自分の生き方に一つの結論を与えたのではなく、そこから自分の生き方を始める為の出発点を定めたのだ、ということになる。

では西行は何故、自分の生涯の出発点として僧形になることを選んだのか。この疑問に答えるためには、西行の生涯を彼の生きた時代と関連付けて考える必要がある、と吉本は指摘する。吉本によれば、平安時代末期から鎌倉幕府成立にかけての時代は、日本人の宗教意識に大きな変動が生じた。平安時代の後半に生まれた浄土信仰が、この時代になるとエリート層以外にもようやく浸透し始めるが、まだ庶民層全体を捉えるには至っていない。浄土信仰はじめいわゆる新仏教が、庶民層全体を捉えるのは、北条政権時代になってからのことだ。浄土信仰についていえば、その時代になると、念仏を通じて弥陀に救われるという絶対他力の信仰となってゆくわけだが、西行が生きた過渡的な時代にあっては、まだそうした徹底さは現れていない。人々は念仏だけで浄土に行けるとは考えておらず、浄土を心の中で観想することによって、穢れた現世を超脱して浄土に迎えられるというような具合に信じていた。藤原道長が臨終に及んで、自分の手を阿弥陀仏の手と糸で結び合わせ、西方浄土を観想しながら死んでいったという逸話は、やや時代が遡ったころの話であるが、一時代の人々の浄土信仰を物語る典型的な話である。

西行の時代に仏教信仰の中心をなしたのは浄土信仰であった。浄土信仰は天台、真言の両派から生まれてきたものだが、西行が帰依したのは真言浄土信仰だった。この信仰は、即身成仏に見られるように、現世のしがらみから開放され、ゆるやかな餓死を通じて成仏することを理想としていた。こうした信仰は、貴族が担っていた従来の宗教からは逸脱したものであり、そこには信仰の担い手が社会の上層たる貴族層から中層以下末端に至る武士層に担われるようになったという変化が介在していた、と吉本は考えているようである。

中級以下末端の武士層は深い教養があるわけでもなく、その信仰心も現世との断絶を伴った厳しいものではなかったと思われる。彼らは、僧の話に心を慰められながら、現世の悩みを軽減してくれるものとして仏教を受け止め、自分が死後浄土に生まれ変われるという希望を浄土信仰のうちに見出したのではないか。そうした点では、この時代の武士の浄土信仰には、多分にご都合主義的なところがあった。西行は、武士としては比較的上層に属するが、教養や信仰の深さという点では、とくに抜きん出ていたとは考えられない。彼も武士の一人として、時代の雰囲気を受け止め、そこから自分なりに生き方を模索したのではないか、というのが吉本の見立てのようである。吉本は次のように言って、この見立てを強調する。

「出家は、いわば、平安末から鎌倉期にかけての前衛的な思想であり、僧形は、ある意味で前衛的でもあった。青年が流行の思想に踏み込むのに、いつの時代でも、さしたる個人的な動機が必要なわけではない。そういう意味では、西行の出家を時代思想に埋没させても、よいように思われる」

ともあれ、吉本は西行をまず僧形の人として位置づけるわけである。その上で山家集以下の歌集に残された歌を解釈する。その解釈が抹香くさいものになるのは、事柄の勢いというものだろう。ここではそれを物語るものとして、二つの例を取り上げる。

まず、桜を歌った歌。西行は桜の歌人と言われるほどに桜を歌った歌を多く作った。古来花と言えば梅の花だったものを、桜が梅にかわるについて、西行が果たした役割には決定的なものがある。西行が一連の歌で桜を謳歌することがなかったなら、桜の花が日本人の美的な感性に根付くことはなかったかもしれない。そんな西行が歌った有名な一首、「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもちつきのころ」は、普通の解釈では、桜を愛した西行が、死ぬときにも桜の花の咲くのを見ながら死にたいという思いを歌ったものだとされてきた。しかし吉本はその解釈にひとひねり加える。ここでいう桜は、ただの花などではなく、それは浄土の象徴だと言うのである。だからこの歌は、浄土の象徴である桜の花に囲まれながら、浄土に往生したいと願った歌なのだ、ということになる。

ついで、月の歌。月も花同様に日本人の愛したものであり、古来歌にも読み込まれてきた。それは多くの場合、月にことよせて、心のひだを開いてみせるという形をとってきたが、ここでも西行は歌における月の取り上げ方に革命的な変化をもたらした、と吉本は言う。西行は、「月を秋の景物としての月から、この世のこころと来世のこころとを映し、境界にあってそのふたつを一つの鏡に合わせている形而上的存在にまで高め」たと言うのである。そんなわけだから、月が西に傾くのは、「心が西方浄土に傾いてゆくことと同義であった」と吉本は解釈しなおす。

この二つの例に止まらず、西行の歌には浄土信仰の思いが込められている、と吉本は解釈し、そこに西行僧形論に目に見える証拠を示そうとするかのようなのである。





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壺斎様
私の西行論を述べてみたい。(2016/7/3 白峯(4)雨月物語を読むのコメント参照)
1140年、西行23歳で待賢門院への思慕捨てがたく妻と子を捨て、突然出家した。待賢門院は西行より18歳ほど年上のやんごとなき女性であったが、鳥羽上皇の寵愛を失い、落飾し尼となった。三年後不遇の中にあった待賢門院は44歳で亡くなった。
多分待賢門院が亡くなってすぐの1144年、恋慕の煩悶を断ち切り、能因法師の歌枕を訪ねて、歌人西行としてみちのくへの旅に出立する。
みちのくから帰った30歳前の西行は、「大峯入り」の難行にいどみ、3年ほどこの地で修行した。武道で鍛えた西行は大峯の荒行に耐え、煩悩を払い除け、空を体得するに至ったのではなかろうか。
大峯のしんせん(深仙宿)と申す所にて月を眺めて読みけるに
 深き山に すみける月を 見ざりせば 思い出もなき わが身ならまし
訳 深山で見た月は、なんとすばらしいものなのだろう、もしもこの月を見なかったならば、生涯の思い出はなかったろう
その後、高野山の地で10年ほど真言密教の修行を続けた。
保元の乱に敗れた崇徳院は讃岐に流され、その後流刑地の讃岐で崩御された。密かに暗殺されたという噂も流れた。崇徳院の霊はやがて怨霊となって都の人々に恐れられた。早良親王以来の怨霊といわれた崇徳院の霊をいかに鎮めることができるであろうか。空海は早良親王の怨霊を密教の手法により、護摩をたき真言を唱え、祈祷をして、調伏(ちょうぶく)したが、それができない西行はどうしたらいいのだろうかと考え続けた。
その結論は、和歌という真言をもって崇徳院の御霊に語りかけることにあるのではなかろうか。
よしや君 むかしの玉のゆかとても かからむ後は何にかはせむ
西行は白峯の崇徳院の陵墓の前で、和歌を詠み御霊に語りかけたのではないだろうか。京都の崇徳歌壇で共に和歌の研鑽に励み、和歌を詠んでいたあの懐かしい時代のことをも語ったのではないだろうか。
そのあと西行は空海生誕の地、善通寺を訪れた。心が癒されたのではないだろうか。幼少時、真魚と呼ばれていた頃のエピソードを詳しく聞いたのであろう。若くして仏道に打ち込んでいた空海に、ますます尊崇の念を強くしたのではないだろうか。
空海は、唐で恵果から伝法灌頂を受けた青龍寺と同じ造りのお寺をつくり、密教を弘めることを思い立った。唐から持ち帰った密教の教えをあらわす曼荼羅を置き、行道所をもうけ、この寺を曼荼羅寺と命名した。西行はこの寺で修行をするため、この近くに庵を結んだ。この行道所には、空海が行った虚空蔵求聞持法ができるところもあったろう。阿字観の修行ができる道場もあったろう。ここで空海の懐に抱かれるような気持ちで、心おきなく西行は修行に努めたであろう。
西行は、冬のある満月の夜、庵からであろうか、あるいは行道所からであろうか次のような和歌を詠むのである。
くもりなき山にて海の月みれば島ぞ氷の絶間なりける
くもりなき山は空海と私(西行)の今いる曼荼羅寺の山である。西行は、阿字観の行により、空にある月を一旦、くもりなき心に入れ、この月を虚空に返した。月、則ち大日如来は明るく輝き、冷たい風の吹く海をあまねく照らした。海は氷のようにキラキラと輝いているが、昼間見えた島は、絶間であり、黒闇で何も存在しないかのようだ。昼間は色(しき)の世界であったが、月すなわち大日如来は、島は、空だと教えている。つまり今は空の世界であると・・・・・・・色即是空 空即是色の世界を体感していたのではないか。
四国で空海の心にふれるような修行は、西行にとってみのりあるものであったに違いない。歌もさらに深化していくのではなかろうか。
西行は歌の完成、思想の総決算をめざして伊勢へ移り住むのである。
南都焼き討ちにあって消失した東大寺を再建すべく勧進となっていた重源(ちょうげん)が伊勢神宮を参拝した折、伊勢の西行を訪ね、奥州藤原氏に砂金の勧進を依頼した。1186年68歳になっていた西行は、ふたたびみちのくへ向けて旅に出る。
旅の途中、「東の方へ修行し侍りけるに、富士の山をよめる」
 風なびく ふじのけぶりの 空に消えて ゆくえも知らぬ わが思いかな
この歌は西行の自讃歌の筆頭にあげるものである。歌と仏道の修行の極致に至った歌だと西行は思ったのであろう。西行は、富士と一体の境地になったのだろうか。
途中、鎌倉で源頼朝に会う。ここでいろいろなエピソードを残している。東大寺の勧進のため、奥羽の平泉の藤原氏を訪ねることも語ったに違いない。頼朝は東大寺再建の勧進に積極的にこたえ、かなりの財政負担をしている。平泉についた西行は、藤原秀衛に砂金をおくるように勧進し、すぐに砂金は東大寺へ送られたという。
みちのくより帰った西行は、比叡山の無動寺の慈円を訪ねた。慈円に自分の考えていることをあつく語った。今まで自分が作ってきた歌を自歌歌合せのかたちにして、伊勢神宮に奉納する、それに藤原俊成と藤原定家の判をそえる、そして慈円にも西行の歌を清書してもらうという「企て」であった。
天台座主であった慈円が清書した西行の和歌72首を、「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」の1番から36番まで左と右におき、その勝ち負けを藤原俊成の判定の詞(ことば)書きをそえて、伊勢の内宮に奉納した。御裳濯河はいまの五十鈴川のことである。神路山はこの上流にある。このような歌合せの奉納は前例のないことであった。
この歌合せの一番は下記
左  岩戸あけし 天つみことの そのかみに 桜をたれか うゑはじめけむ
訳 天岩戸をお開けになった 神のいらした その昔に 桜を誰が植え始めたのだろう
右  神路山 月さやかなる ちかいありて 天の下をば てらすなり 
訳 大日如来が垂迹した神路山に 月がさやかに照らし 民を救おうという誓いがあって 天照大神はこの世界全体を 照らしているのだ。
藤原俊成はこの組を次のように評している。
 一番のつがひ、左の歌は、春のさくらをおもふあまり、神代のことまでたどり、右歌は、天の下をてらす月を見て、神路山のちかひをしれる心、ともにふかく聞こゆ、持とすべし
訳 一番のつがいでは、左の歌は、春の桜を思うあまり、神代のことまでたどり、右歌この世界を照らす月を見て、神路山の誓いを知る心を詠う、ともに深く聞こえる。引き分けとすべきだろう。
左歌で桜と神道的文化伝承とのつながりを西行は求めたのだ、と俊成は認識している。また右歌は、天にかかる月の光をみて、神路山に垂迹した仏の誓いを思う心をよんだものとしている。密教の根本仏、大日如来が天照大神としてこの日本の地に出現した、つまり、垂迹したという神仏習合の思想を詠ったものである。この神道と仏教の思想を並べたものを深い気持ちで詠ったものとして引き分けにすることは、俊成にとって当然のことであったろう。しかも左歌は、西行の桜に対する思いが神道への思いと重なった点を俊成がことさらに指摘している点は、きわめて重要である。西行にとって、桜はたんに愛する花というだけではなかった。それは日本という空間を彩る花にほかならなかったからである。
歌合せの最後36番にはつぎの歌がある。
左  深くいりて 神路のおくを たづぬれば 又上もなき 峯の松風
訳 深く入って行き 神路山のその奥を たずねてゆくと かぎりない尊い 峰の松風が吹く
右  流たえぬ 波にや世をば 治むらん 神かぜすずし みもすその岸
訳 絶えることのない流れの 波によせてこの世を 平和に治められるのだろう 神風は涼しく吹いてゆく  御裳濯河(みもすそがわ)の岸辺に
俊成はつぎのような判を書いている。
左歌、心詞ふかくして愚感難押(ぐかんおさえがたく)、但右歌も、神風久しくみもすその岸にすずしからむ事、勝劣の詞を加えがたし。
訳 左歌は、歌の心も詞も深くて感動が押さえがたい。ただし、右歌も、神風が久しく御裳濯川の岸に涼しく吹いてほしいということ、勝劣の判定を加えがたい。
俊成はこのように「神風久しくみもすその岸すずしからむ事」と述べて、平和への願いを込める西行の意図をよくくみ取っている。
1189年に、西行は大阪の河内の弘川寺に移り住む。ここで、藤原定家に依頼していた「宮河歌合」の判定の詞書きの完成を待っていた。病で伏せていた西行のもとに、2年越しになって、この詞書きが届いた。喜んだ西行は、二日をかけてよんだ。期待以上のできに、すっかり興奮した西行がここにいた。この年、伊勢神宮の外宮に、この「宮河歌合」を奉納した。西行は、71歳になっていた。
 伊勢の内宮へ奉納した「宮河(みやがわ)歌合」の1番目の歌は
左 万代(よろずよ)を 山田のはらの あや杉に 風しきたてて こゑよばふなり
訳 永世を願い 外宮に近い山田の原の あや杉に風がしきりに吹き立てて 叫んでいる
右 流れいでて み跡たれます みづがきは 宮河よりや わたらいのしめ
訳 流れ出て 大日如来の垂迹の跡であるこの社の美しい垣根は 宮川から度会(わたらい)のしめなわである。
1番の左歌は外宮に近い山田の原のあや杉に神風が、万代にわたって吹き続けることを詠う歌であり、右歌は、「み跡たれます」ということばによって、この歌合せは、本地垂迹の思想であると明言している。定家はこの歌合せを「神風宮河歌合せ」とよんでいる。
 神風が万代にわたって、この国に(あや杉に)吹き続けることを願うこの歌は、後の世の蒙古襲来の風を、また第2次世界大戦で悪用されたことを思い起こさせるのは私だけではないだろう。
最後の36番の歌はどのようなものであったか。
左 逢ふと見し その夜の夢の さめであれ ながき睡(ねむり)は うかるべけれど
訳 あの人にあったと見た その夜の夢が さめないでほしい 長い苦悩の眠りは つらく悲しいけれども
右 あはれあはれ 此世はよしや さもあればあれ こむ世もかくや 苦しかるべき
訳 ああ、ああ この世はさあ どうにでもなれ 来世もこの恋のために こんなに苦しいだろうか
 西行は、何故、恋の歌を大事な、しかも伊勢神宮に奉納する歌合せの最後にもってきたのだろうか。定家は解釈に苦しみ悩んだであろう。これは、恋という煩悩から解脱した悟りの境地をしめすものと考えたのであろう。人間にとって、煩悩の象徴として恋をとらえ、これを最後においたのであろうと、定家は考えたにちがいない。この結論にいたるのに2年の歳月を要したと私は思っている。
定家は36番に対して次のような歌を詠っている。
君はまづ うき世の夢の さめぬとも 思いあわせむ のちの春秋
訳 あなたはまず うき世の夢が さめて悟りをひらいたとしても 思いあわせてください 後の春秋を
西行は返しでつぎの歌を詠う
春秋を 君おもいでば 我は又 花と月とに ながめおこせん
訳 春秋を あなたがおもいだすなら わたしもまた 花と月とを ながめて思いおこしましょう。
花と月は日本の文化と仏法の象徴であるが、同時に詠歌の主要な対象である。西行は悟りの境地にいたっても花と月を忘れることはない。
 この「御裳濯河歌合」「宮河歌合」の歌と訳、解説は西行の風景(桑子敏雄)を参照しています。

文治6年2月16日未時(ひつじ)は、新暦の1190年4月1日午後2時頃の事、西行は河内の弘川寺で入寂した。満72歳であった。このことが、都に伝えられると、大変な驚きにつつまれたという。
その10年ほど前であろうか、西行は次のような歌を詠っている。
願わくは 花の下にて 死なん、そのきさらぎの 望月のころ
お釈迦様の入寂に遅れること1日、苦しむ様子もなく静かな死を迎えて、次の歌をも思い浮かべたであろうか。
老いてふたたびみちのくへの旅の途中、西行が富士を見て、詠んだ次の歌を自賛歌の筆頭にあげている、と慈円は言っている。
 風になびく ふじのけぶりの 空にきえて 行へもしらぬ わが思ひかな
この歌は、西行にとって悟りの最終の姿であると思ったに違いない。おのれは、空となって富士と一体となり、わが思いも虚空に消え「空」となった境地、悟りに至ったと感じた。悟りの中で生まれた和歌は、そのままのやさしい言葉で詠まれた。私は般若心経の冒頭の一節を思い起こす。
 観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 ・・・・
観音様が深い般若の智慧を行ずる時、すべてのものは空であることが了了(りょうりょう)として観えてくる、まさに西行はこの悟りを体得したのにちがいない。「色即是空 空即是色」の世界の実相を悟り、もはやここには苦も厄も一切ない、静かな喜びにある境地にあるときに、西行の心に降りてきた言葉、啓示のような真言がこの歌ではないだろうか。
 お釈迦様が悟られたとき、その真理を釈迦個人のものにしておくのではなく、梵天の勧請もあって、広く法を弘める為、伝道の旅にでたことを西行は思い起こしていた。西行は和歌が真言である、和歌を造るは、仏道を修行するのと同じであるとおもった。この事を心ある人々に知らしめたい、そんな気持ちで伊勢神宮に歌合せの形で、和歌を奉納したい、西行はこの企てを思いつき、実行したと私は考えている。
 2014/8/7 服部

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