森本あんり「反知性主義」

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最近は日本でも「反知性主義」という言葉が流行っているが、それは「知性に反した愚かな言動をする人たち」つまり愚者という意味で使われている。ところがこの言葉はもともとアメリカで言われたもので、その当のアメリカにはこういう意味合いはないようだ。森本あんりによれば、この言葉は反権威主義というような意味合いで使われた。アメリカにはこうした反権威主義の伝統があって、それが節目ごとに勢いをもりかえし、アメリカの歴史を動かしてきた、ということらしい。

その森本の著書「反知性主義」は、アメリカの反知性主義の歴史について紹介したものである。森本はこの言葉のそもそもの提唱者リチャード・ホフスタッターの著書「アメリカの反知性主義」に依拠しながら、アメリカの反知性主義がアメリカ独特のキリスト教道徳から生まれ、宗教的な運動をバックボーンにしながら、アメリカの政治を大きく動かしてきた歴史を振り返る。

その結果森本のたどりついた結論は次のようなものである。アメリカはヨーロッパのように歴史的な伝統を持たなかったが故に、知性が偏重される社会だった。そしてその知性は権威と結びついて強力な支配層を形成した。アメリカにあってはだから、知性は権威と結びつけて表象されたわけである。これは権威が伝統と結びつく旧社会とは全く異なる様相であって、アメリカ独特のものと言ってよい。そのアメリカで反権力の運動が現れるとき、それは反知性主義の形をとる。権威が知性と結びついているからだ。

このようにアメリカの反知性主義は、知性そのものに敵対するものではなく、知性によって代表されている権威に対する異議申し立ての色彩を有している。それはアメリカ流の反権力運動の表れなのだ。こうした反権力の運動は、大体において宗教的な運動と結びつくというのがアメリカの歴史の特徴だ。アメリカ建国の最大の理念は信仰の自由であったが、その信仰への渇仰がリバイバル運動という形をとり、それが反知性主義として、反権力の旗印となる。この繰り返しがアメリカの歴史だった、というのが森本の基本的な見立てである。

こうした見方に立てば、レーガンも反知性主義の申し子だったということになる。レーガンは合衆国大統領として権力そのものであったから、反権力としての反知性主義と結びつけるのは矛盾しているように見えるが、大きな目で見ればやはり反知性主義の特徴を強く備えている。アメリカの政治空間の周縁部から登場してきたこと、いわゆるエスタブリッシュメントを強く批判し、アメリカのよき伝統である開拓者精神を強調したことなどである。レーガンは小さな政府を目指した近代アメリカで最初の政治家であるが、それも反権威主義のひとつの現われといってもよい。

同じくいま話題のトランプも反知性主義の好例と見ることができる。一見メチャクチャなトランプの言動がなぜ多くのアメリカ人のハートを捉えるのか。それはトランプがアメリカの政治的伝統である反知性主義を体現しているのだと考えれば理解できないことではない。それに対してヒラリーのほうはアメリカのエスタブリッシュメントの守護者というふうに見られている。トランプ対ヒラリーの戦いは、知性主義対反知性主義の戦いと見られているわけである。

以上のような反知性主義の見方を日本に当てはめたらどういうことになるか。強力な反知性主義が成り立つためには、その批判に耐えるような強力な知性が存在することが必要である。日本にはそのような知性が存在し、しかもその知性が国を動かす原動力となっているだろうか。こう森本は問いかけ、その問いに対して「否」と答える。日本には反知性主義を生むような強い知性の伝統はないし、またそうした知性が国を動かしてきたこともない、というわけである。日本で反知性主義的に見えるものは、本物の、つまりアメリカ並みの反知性主義ではなく、知性を欠いたもの、つまり没知性主義とか知的ヴァンダリズムとか称したほうが相応しいような代物である、と言えるのではないか。

この本で反知性主義の最大のチャンピオンとされるサンデーとレーガンとの間に多くの共通点があることに興味を引かれる。サンデーは野球チームシカゴ・カブスのプレーヤーとして出発したが、レーガンも若い頃はシカゴ・カブスと生活をともにしていた。カブスにはアメリカ中西部の球団として、エスタブリッシュメントに対抗するような精神文化があったのだろうか。このほかに、信仰を神への一方的な帰依としてではなく、神と人間との間の双務契約として考え、信仰を現世利益を保証してくれるものとして捉えるメンタリティも共通している。サンデーは布教をビジネスと考えていたし、レーガンは、神には彼を信仰する人間に報いる義務があるはずだから、人々は安心して神を頼りにしてもよいと考えていた。

「こんな発想を平気でするのは、キリスト教徒の中でもやっぱりアメリカ人だけだろう」。そう森本は言って、アメリカの反知性主義の宗教的な背景を強調するのである。






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壺斎様
 知性は単独で存在するのではなく、ある行為の道具として現れるのであって人間の意識が根本となっているのではないか。とすれば、完全な知性などは存在しえない、なぜなら人間は情念に大きく影響を受けているからである。知性は多かれ少なかれ、時代の影響を受けている。ましてや権威的な知性などは、知性と言えないのではないか。とすれば、ここでいう反知性は純粋な知性に近いということになるのかもしれない。
 永い時代を通じて、知性として輝き続けるものは少ないのかもしれない。
<神には彼を信仰する人間に報いる義務があるはずだから、人々は安心して神を頼りにしてもよい>この言葉は、親鸞の信仰とおなじではないだろうか。信仰すれば、必ず救われると。
 宗教的天才のキリストや仏陀には人間の真理を発見した知性が備わっており哲学があり、永遠に輝き続けている。
 トランプには、アメリカ国民の劣情に迎合し、扇動しているように思える。トランプの感情とアメリカの負の感情が共鳴しあっているのではないか。よもやクリントンが負けるとは思わないが・・・
 2016/9/20 服部

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